中津の文化総合誌「邪馬台」。「団塊の自分史--中津北高20回生の自分史リレー」が始まった。

中津の文化総合誌「邪馬台」2017年冬号(通巻205号)が届いた。

団塊」の自分史--中津北高校20回生(昭和43年卒)の軌跡、というタイトルで、友人たちの連載が始まった。まず、猪俣範一君の「中国国営企業買収と運営顛末①」という自分史。その前に松田俊秀君がこのシリーズが始まった経緯を書いている。

「編集後記」には、新貝正勝編集委員(前市長)が、「今号から中津北高校20回生(昭和43年卒)有志の「自分史」が始まることとなった。これまでのどちらかと言えば純文学的な編集方針とは大きく変わることとなるが、中津出身者の活躍ぶりを知って頂ければと思います」と期待をかいていただいている。

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以下、 松田俊秀君の「文春」への投稿原稿。

我らが母校は「福沢(諭吉)精神受けつぎて、、」と校歌にある大分県立中津北高校である。中津は最近では「官兵衛」ブームに沸いた。今回集まったのはビートルズと学園紛争の喧噪のまっただ中にあった昭和43年卒業の国立大学受験クラスの仲間だ。

上京組では、文武両道で優等生の清原は京大卒業後、三井物産で長く化学繊維を担当し活躍した。同級生が集まる神田の洞門(同級生の故・小川博世君経営)ではスマートな商社マン姿で現れた。今は我々監査役世代に対し、新しい時代の監査役像を示してくれる。

やや理屈っぽかった久恒は弁護士を目指し九大に入ったが、探検部活動に熱中。卒業後は日本航空に入社し40代半ばで宮城大学教授に転身。現在は多摩大で論客・寺島実郎学長を補佐し大学改革に邁進中だ。図解コミュニケーションというキーワードでベストセラーもあり、著作は100冊を超えている。

人柄のよかった吉森は大分大では寮長として指導力を発揮するなど変身し、入社した日本火災海上では大活躍し、合併した日本興亜火災の副社長執行役員にまでのぼりつめた。現在は同郷の夫人とともに中津に戻り仲間とゴルフ三昧とか。

 地元組では、才色兼備の須賀は東京教育大学を出て中津に戻り数少ない知性派女性市会議員として活躍する傍ら、途上国の加工品や農産物を販売する「フェアトレード・大地」の代表としてネパール・インドなどの生産者の生活改善や而立を支援していて頼もしい。

明るいがアバウトだった内尾は久留米大医学部を出て、現在は内尾整形外科の院長として信頼を集めている。一昨年まで母校の同窓会長として我々と、故郷・母校をつないでくれた。仲間が帰郷すると必ず宴会を開いてくれる同級生交歓のキーマンだ。

 バイクで耶馬溪から遠距離通学だった私は吉森と同じ大分大を卒業後、小野田セメント(現在は太平洋セメント)に入社し、全国8カ所を転勤。東(あずま)海運に転籍しCFOとして東証一部上場を実現したのが貴重な体験。今は病院ボランティアで忙しい。

 地方の名門でもない高校が一瞬の光芒を放った団塊最後列の世代であり、仲がいいのが特徴だ。母校の校歌は「、、ああ、独立自尊のナカーツキタコーコー」と続くが、「終わった人」(内舘牧子)にならないように、郷里の偉人に恥じない生き方をさらに続けていきたいものだ。

 

「副学長日誌・志塾の風」171222

 ・9時半:杉本係長:戦略会議

・10時:久米先生:日下(公人)スクール、、、。

・10時40分: 「立志人物伝」13回目の授業。作業に没頭中。f:id:k-hisatune:20171222225316j:image

 九段サテライト。

・14時:大学戦略会議:テーマ「国際」。国際交流センターの方針、、、。

・15時半:大学運営会議

・17時:JALの栢沼部長来訪。

 新宿三井ビルで懇親会。樋口先生、中村先生、石川先生。f:id:k-hisatune:20171222225924j:image

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「名言との対話」12月22日。神永昭夫「人並みにやっていたら、人並みにしかならない」

神永 昭夫(かみなが あきお、1936年12月22日 - 1993年3月21日)は日本柔道家講道館9段)。

全日本選手権を3度制した神永は、ライバル猪熊功と1960年代初頭に神熊時代を築いた。柔道がはじめて採用された1964年東京オリンピックでは無差別級に出場するも、決勝戦オランダアントン・ヘーシンクに敗れて銀メダルに終わった。母校の明治大学柔道部監督に就任し、上村春樹を育てあげた。1976年のモントリオールオリンピックで、上村が無差別級で金メダルをとる。その上村は、1978年の第1回嘉納治五郎杯の決勝で山下泰裕にやぶれ、引退を決意する。上村は後に第五代講道館館長となり、日本柔道界を牽引している。

 「敵に勝つには、まず、負けないことだ」

「全力を尽くしてやりました。それで負けたのですから、自分としては悔いはありません」。1964年の東京オリンピックの無差別級で、オランダのヘーシンクに敗れたときの記者会見で神永が語った言葉である。神永は日本柔道の敗北という批判にさらされた。当時中学生だった私もこの敗戦に衝撃を受けたことを思い出す。実は試合直前に左靭帯を断裂していたという。東北高校時代から柔道を始めた遅い出発の神永は猛稽古で精進を重ねた。確かに「人並みにやっていたら、人並みにしかならない」。神永の残した言葉をみると、明治大学柔道部監督として後進を育てたように、教育者的資質にあふれた柔道家であり、「勝負はいつでも負けから始まる。弱さを知ったときから技の工夫が始まるんだ」との言葉どおり、神永、上村、山下、、へとつながる柔道界の道筋をつけた功績には大きいものがある。

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 「名言との対話」12月22日。東郷平八郎「百発百中の一発、よく百発一中の敵砲百門に対抗しうる」

東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日1848年1月27日) - 昭和9年(1934年5月30日)は、日本の幕末から明治時代薩摩藩士、軍人

日露戦争では連合艦隊司令長官として指揮を執り日本海海戦での完勝により英雄となった。「東洋のネルソン」と呼ばれた。各地の東郷神社に名を残している。

日露戦争に勝利し、連合艦隊を解散し、平時編成に戻すことになった。その際に連合艦隊解散の辞として東郷が読み上げた訓示は米国のセオドア・ルーズベルト大統領が感銘を受け、英訳文を全米の海軍将兵に配布した。バルチック艦隊を破った名参謀秋山真之の起草した歴史的名文であり、以下全文を掲げる。

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20数ヶ月にわたった戦争も、今や過去のこととなり、わが連合艦隊は、今やその任務を果して、ここに解散することとなった。しかし艦隊は解散しても、わが海軍軍人の務めや責任が、軽減するということはない。この戦役で収めた成果を、永遠に保ち、さらに一層国運をさかんにするには、平時戦時の別なく、まずもって外からの守りに対し、重要な役割を持つ海軍が、常に万全の海上戦力を保持し、ひとたび事あるときは、ただちに、その危急に対応できる備えが必要である。
ところで、その戦力であるが、戦力なるものはただ艦船兵器等有形の物や数によってだけ、定まるのではなく、これを活用する能力すなわち無形の実力にも実在する。百発百中の砲は、一門よく百発一中、いうなれば百発打っても一発しか当らないような砲なら百門と対抗することができるのであって、この理に気づくなら、われわれ軍人は無形の実力の充実、即ち訓練に主点を置かなければならない。先般わが海軍が勝利を得たのは、もちろん天皇陛下の霊徳によるとはいえ、一面また将兵の平素の練磨によるものであって、それがあのような事例をもって、将来を推測するならば、たとえ戦争は終ったとはいえ、安閑としてはおれないような気がする。
考えるに軍人の一生は戦いの連続であって、その責務は平時であれ、戦時であれ、その時々によって軽くなったり、重くなったりするものではない。事が起これば、戦力を発揮するし、事がないときは、戦力の蓄積につとめ、ひたすらその本分を尽くすことにある。過去一年半かの風波と戦い、寒暑に直面し、しばしば強敵とまみえて生死の間に出入りしたことは、もちろんたいへんなことではあったが、考えてみると、これもまた、長期の一大演習であって、これに参加し、多くの知識を啓発することができたのは、軍人として、この上もない幸せであったというべきで、戦争の苦労も些細なものにしてくれるといえよう。もし軍人が太平に安心して、目前の安楽を追うならば、兵備の外見がいかに立派であっても、それはあたかも、砂上の楼閣のようなものでしかなく、ひとたび暴風にあえば、たちまち崩壊してしまうであろう。まことに心すべきことである。
むかし神功皇后三韓を征服されて後、韓国は400余年間、わが支配の下にあったけれども、ひとたび海軍がすたれると、たちまちこれを失い、また近世に至っては、徳川幕府が太平になれ、兵備をおこたると、数隻の米艦の扱いにも国中が苦しみ、またロシアの軍艦が千島樺太をねらっても、これに立ち向うことができなかった。目を転じて西洋史を見ると、19世紀の初期ナイル及びトラファルガー等に勝った英国海軍は、祖国をゆるぎない安泰なものとしたばかりでなく、それ以後、後進が相次いで、よくその武力を維持し、世運の進歩におくれなかったから、今日に至るまで永く国益を守り、国威を伸張することができた。
考えるに、このような古今東西の教訓は、政治のあり方にもよるけれども、そもそもは軍人が平安な時にあっても、戦いを忘れないで、備えを固くしているか、どうかにかかり、それが自然にこのような結果を生んだのである。
われわれ戦後の軍人は、深くこれらの実例、教訓を省察し、これまでの練磨の上に、戦役の体験を加え、さらに将来の進歩を図って、時勢の発展におくれないように努めなければならない。
そして常に聖諭を泰戴して、ひたすら奮励し、万全の実力を充実して、時節の到来を待つならば、おそらく、永遠に国家を護るという重大な責務を果たすことが出来るであろう。
神は平素ひたすら鍛錬につとめ、戦う前に既に戦勝を約束された者に、勝利の栄冠を授けると共に、一勝に満足し、太平に安閑としている者からは、ただちにその栄冠を取上げてしまうであろう。
昔のことわざにも「勝って兜の緒を締めよ」とある。
        1905年12月21日 連合艦隊司令長官 東郷平八郎

 救国の英雄・東郷平八郎は、教訓の省察、技術の錬磨、時勢の知悉で、時節の到来に備えよ、と語っている。百発百中の必殺の大砲一つは、百発一中という精度の悪い大砲百に対抗できるという言葉で、限界のない訓練による技術の錬磨の大切さを述べ、平時においても鍛錬を重ねよと将兵を激励している。そして幸運な勝利に満足してこの鍛錬を怠った者は、すぐに亡ぶと警鐘を鳴らしている。それから40年後の1945年に奢った日本は壊滅してしまう。日本は東郷の戒めの「兜の緒」を締めることができなかったのだ。