母を囲む食事会〜ー呼称としての先生と、尊称としての先生。

中津の「瑠璃京」で90歳を迎えた母の、友人、弟子たち3人を招いての食事会。このような人達に囲まれて短歌を教え、万葉集伊勢物語を講義し、先生と呼ばれることは素晴らしいと、改めて感じた。学校の先生や、医者の先生は、単なる呼称であるが、いつの間にか母が呼ばれるようになった「先生」は、尊称であろう。

 

「名言との対話」12月25日。白隠「煩悩即菩提」

白隠 慧鶴(はくいん えかく、1686年1月19日貞享2年12月25日) - 1769年1月18日明和5年12月11日))は、臨済宗中興の祖と称される江戸中期禅僧である。

駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」、と富士山と並び称される白隠という禅坊主がいた。白隠という号も富士山に因んでいる。「富獄は雪に隠れている」とのたとえからとったものである。

臨済宗中興の祖白隠は沼津生まれ。15歳で出家し諸国行脚し、41歳で大悟する。禅宗を広める手段として書画を用いた。絵解き説法である。禅宗の開祖達磨を300点以上を描いている。釈迦、永遠の母の面影であるしもぶくれの観音、七福神、なども多数描いている。千万言を費やしても究極のところを表すことはできないことから、膨大な著書群に加えて数万点の禅画・墨跡を残している。この独特の禅画・墨跡が圧倒的な人気なのだ。「気迫の圧倒的なこと、旺盛な精力まで籠められている」と女流作家で仏教者でもあった岡本かの子が評している。

墨跡はグラフィック文字のような書体で、特に寿(いのちながし)は百の書体で書いている。禅宗では「円相」が大事なものらしい。白隠の賛は「十方、虚空無く、大地、寸土無し」である。円の解釈は見る者に委ねられているそうだが、この意味も自分なりに深掘りしてみたい。

白隠は、ほとんどの画に賛を書き込んでいる。画賛とは「画に因んで、その夜は国書き添えた詩句など」(広辞苑)である。絵画と言語で表現する東洋独特のものだ。白隠はこれに宗教的メッセージを入れ込んだ。また相手に応じて描き分けた。だから、見て、読むことが大事になる。白隠の画業は後の富岡鉄斎と同じく80歳を越えてからがピークだったことも驚きだ。

中津の自性寺には白隠の作品がある。自性寺は白隠にとって特別なコミュニケーションがあった寺である。ある企画展で観た「出山釈迦」(苦行の果てにあばら骨が浮き、髭はぼうぼう、足の爪も伸びきった釈迦像)という作品は中津の自性寺の作品だったので驚いたことがある。「富士大名行列」は富士山のふもとを大名行列が通るところを描いたものであるが、「はるばる豊前の自性寺和尚にお届けする」という言葉も残っている。ダルマの賛には「直指人心、見性成仏」とある。まっすぐに自分の心を見つめて、仏になろうとするのではなく、本来自分に備わっている仏性に目覚めなさい、という教えである。

子どもの頃に聴かされた地獄の責め苦が恐ろしくこれを避けるために出家を決心し、大悟するまで、白隠は悩み、苦しむ、増上し、慢心する。その折々に励ました、また戒めた言葉がある。それが道中の工夫は静中に勝ること百千億倍であるという意味の「道中工夫」と、「煩悩即菩提」である。この意味は「大きな迷いがあれば、大きな悟りがある。問題のないところに答えはない」である。迷いのない人生は悟りのない人生だ。できるだけ大きく迷え。大きな迷いが大きな悟りを得た白隠をつくったのだ。気を楽にして大いに迷おうではないか。