日本遺産「耶馬渓」の企画展ーー吉田初三郎のパノラマ地図。

 耶馬渓風物館で開催中の企画展。昭和29年に日本遺産に認定された耶馬渓

「空から見るーーやばけい遊覧」。大地に描いた山水絵巻の道をゆく」。

「大正の広重」と呼ばれた吉田初三郎のパノラマ地図と言われた鳥瞰絵図の企画展。

二度フランスに留学し、商業美術(デザイン)分野の隆盛を見た師匠の鹿子木孟郎から「洋画界のためにポスターや広告図案を描く大衆作家となれ」とアドバイスを受ける。

1913年には、湯布院の亀の井の油屋熊八と出会う。1914年には「京阪電車案内」をみた皇太子(後の昭和天皇)から、「これは綺麗でわかりやすい」とのお言葉をもらい、初三郎は「図画報国」の念を持つ。京都日出新聞、大阪時報などから「大正の広重」と紹介される。明治末から大正時代にかけて初三郎のパノラマ地図は大観光時代を演出した。

前田虹映(1897〜1945)は一番弟子。

吉田朝太郎(1909ー2000)は前田と並ぶ。養子。

中村治郎(1908ー1966)は、初三郎式鳥瞰図の継承者。

戦時中は、鳥瞰図はスパイが利用するという理由で控えさせられ、危機の時代を迎えるが、中国や朝鮮半島の鳥瞰図を描くなど、「彩菅報国」という心持ちで貢献する。

この吉田初三郎については、個人的に研究を深める必要があると改めて認識した。

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 耶馬渓は1910年に「婦人世界」で美保の松原、大沼と並んで日本三景に選ばれて有名にな理、一大観光地になった。

青の洞門。禅海和尚が49歳から78歳まで30年間ノミで掘り続けた360メートル。鎖渡しと呼ばれた難所。菊池寛が31歳の時に著した「怨讐の彼方に」で有名になった。

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耶馬渓風物館にある小野桜山の像。文化財保護の先駆者。和漢典籍の蒐集家。反古文庫、馬渓文庫。2800部、1万余巻を収集。

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岩渕精次郎。

中津の偉人・賢人。

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島田虎之助の錬心堂。

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 「名言との対話」12月26日。五代友厚「仕事は命がけや。死んでも仕事は残る。そういう仕事をせなあかん」

 五代 友厚(ごだい ともあつ。天保6年12月26日(1836年2月12日--1885年9月25日)は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての日本武士薩摩藩士)、実業家 

薩摩藩武士の次男。15歳、藩から長崎海軍伝習所の練習生に選ばれ航海術を学ぶ。慶応元年寺島宗則とともに14名の留学生を率いてイギリスに渡る。帰国後、明治新政府の参与兼外国事務掛となり、会計官権判事。その後、実業界に転じて、大阪において大阪株式取引所、大阪商法会議所、堂島米会所、大阪商業講習所などを開設するなど、大阪経済の恩人と呼ばれた。

「自分より地位の低いものが自分と同じような意見なら、必ずその人の意見として採用すること。」

「勝たなあかんで。負けの人生は惨めや。負けたらあかん、他人やない自分にや。」

「地位か名誉か金か、いや、大切なのは目的だ」という五代友厚は、死んでも残る仕事として、大阪経済の近代化という大きな目的に立ち向かった。「死んでも五代の築いた大阪は残る」と語り、実際に歴史に名を刻んでいる。後に残る仕事をしようとしているか、そして自分に負けずに達成したか、それが問題なのだ。五代友厚の生き方と残した言葉には、強く迫ってくるものがある。