別府駅で糸永先生に拾ってもらって、「夜CAFE」へ。
来春から多摩大に入学する佐保君とご両親との会食。佐保君は糸永先生の教え子。
インターゼミに入ることも希望していて、頼もしい。
このカフェの後藤代表とも知り合った。島根県の隠岐の島で活性化をやっていた人。
糸永先生の勤務する宇佐支援学校。下村智子校長に挨拶。
有限会社宇佐本百姓の深見取締役のカフェで、支援学校の木村PTA会長も交えて意見交換。宇佐にいる高校同級生の宇野千葉雄君とも合流。
千葉雄君の実家で、奥さんとお父さんに挨拶。
小松酒造場の小松専務(杜氏)で、「豊潤」を購入。
帰りは、宇佐から中津まで千葉雄君に車で送ってもらった。
「名言との対話」12月27日。松平定信「いや、こういう時こそ、人心を一新する絶好の機会だ。不幸をかえって幸いとすべきだ」
松平 定信(まつだいら さだのぶ)は、江戸時代中期の大名、老中。陸奥白河藩第3代藩主。定綱系久松松平家第9代当主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。
奥州白河藩主となり、天明の大飢饉に際して藩政の再建と領民生活の立て直しに成功し名君と呼ばれた。その腕を買われ老中首座となり、田沼意次の政策を否定し、1787年から1793年まで、棄捐令、囲米の制、異学の禁などの寛政の改革を行った。緊縮財政への批判があり、老中を辞し、以後藩政に専念した。
詩歌、文芸、柔術、剣術、砲術など、関心が広い殿様だった。また、『花月草紙』、『宇下人言』などの著書もある。
白河藩主となった夏の浅間山の噴火による降灰、利根川の洪水、冷夏などによる、凶作で餓死者があふれた状況で、家臣が悪い時期に家督を相続されましたなと言ったときに、定信はかぶりをふって冒頭の言葉を吐いた。そして率先垂範して質素倹約につとめ、また人口増加策などを実施し大きな成果をあげている。環境、状況が悪いときこそは、改革のチャンスなのだ。