「大正広重」吉田初三郎の世界

大正から昭和にかけて、約2000点の名所図会・鳥観図を描いた「大正の広重」こと吉田初三郎は、鉄道旅行ブームの火付け役となった。

初三郎は初期は「名所図会」と呼んだが、昭和の全盛期には「鳥瞰図」と呼んでいる。人はパノラマ地図と呼んだ。初三郎は鳥観図絵師である。

周囲を湾曲させ中心を大きく描く手法である。実際に現地を訪れて数十、数百の写生(スケッチ)をもとに一枚の地図に仕上げる手法である。鳥観図の構図決めにもっとも時間を割いている。高度なスケッチ力とアートディレクターとしての豊かな構成力が初三郎式鳥観図を生んだ。

 美しき九州―「大正広重」吉田初三郎の世界美しき九州-「大正広重」吉田初三郎の世界(海鳥社)

 構図は初三郎、着色は弟子という共同スタイルが、驚異的な多作と完成度の高い作品群を生んだ秘密である。

実地踏査写生。構想。下図。着色。装幀・編纂。印刷。以上の6工程の中でも、構図に最も時間を割いた。必要と思われる部分に中心点を置き、随所で拡大する、という工夫をほどこしている。初三郎自身の視点を通して表現された芸術であると、自伝『大正広重物語』で述べている。

最も強調したい部分を中心近くに据え、その周辺を極端に湾曲させて、さらに遠近法や目標物を目立たせるために誇張している。そして見えないはずの場所まで描く。九州を描いた作品には、朝鮮半島、中国大連、フィリピンまで視野に入っている。実用性娯楽性、サービス精神を兼ね備えた、感覚的な想像地図である。

晩年には「五十年後、百年後の人々が、私の作品をどう活用し評価してくれるだろう。それが楽しみだ」と記している。初三郎がこの世を去ったのが1955年であるから、今日の時点で67年である。

二度フランスに留学し、商業美術(デザイン)分野の隆盛を見た師匠の鹿子木孟郎から「洋画界のためにポスターや広告図案を描く大衆作家となれ」とアドバイスを受ける。

1913年には、湯布院の亀の井の油屋熊八と出会う。1914年には「京阪電車案内」をみた皇太子(後の昭和天皇)から、「これは綺麗でわかりやすい」とのお言葉をもらい、初三郎は「図画報国」の念を持つ。京都日出新聞、大阪時報などから「大正の広重」と紹介される。明治末から大正時代にかけて初三郎のパノラマ地図は大観光時代を演出した。

大正10年発行の『鉄道旅行案内』を担当した初三郎は、五ヶ月をかけて北海道から九州に至る名所旧蹟を踏査写生し、93点の鳥観図と16点の名所図を完成させ、掲載している。この大ベストセラーが、鉄道旅行ブームを巻き起こした。

旅行・観光に関する機関誌・雑誌を次々に発行し、鉄道省国際観光局の嘱託画家にもおさまっている。

戦時中は、鳥瞰図はスパイが利用するという理由で控えさせられ、危機の時代を迎えるが、中国や朝鮮半島の鳥瞰図を描くなど、「彩菅報国」という心持ちで貢献する。陸軍の嘱託画家を拝命している。奏任官一灯、これは少将であった。

 戦後には、世界初の原爆被爆都市・広島に5ヶ月にわたり滞在し、数百名の被爆者の取材を行い、渾身の力作に仕上げている。

初三郎は、明治・大正・昭和・戦後と長きにわたって、名所、観光地を最も多く訪れた人だろう。

この本の著者・益田啓一郎さんには会いたい。

九州・初三郎研究会のご案内/いっしょに初三郎の世界を楽しみませんか。

WEB地図の資料館/観光地図・絵地図・鳥瞰図・吉田初三郎・前田虹映・アンティーク絵葉書(レトロ画像フォトバンク)etc.

オールド地図コレクション/大正・昭和のレトロ鳥瞰図・観光案内図

 

「名言との対話」12月28日。石原裕次郎「美しき者に微笑を 淋しき者に優しさを
 逞しき者に更に力を 全ての友に思い出を 愛する者に永遠を 心の夢醒める事無く」

石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年昭和9年)12月28日 - 1987年昭和62年)7月17日)は、日本を代表する俳優声優歌手であり、司会者やモデルといったマルチタレント。

石原慎太郎のベストセラーに石原裕次郎のことを書いた「弟」という作品がある。作家と俳優というこの二人の年齢差は二つだ。この作品を読むと兄の目から弟や弟との関係を描いていて、共感を覚えるシーンが多々あった。私の二つ違いの弟にも読むことを勧めた記憶がある。仲間、ライバルなど微妙な二つ違いの関係や感覚を描いた傑作だ。

「兄貴は、僕の尊敬する人物の一人だ。 小さいときから、そうだった。 遊びのことでも、スポーツのことでも、試験勉強のやり方でも、兄貴の言うとおりやれば、まず間違いないと思っていた。こうなると、もう一種の信仰だね。だから、あいつの言うことはよく訊いた。いまでもそうだ。」

訪問した群馬県館林の向井千秋記念子ども科学館では、慶應義塾大学の医学部で活躍する後の宇宙飛行士向井千秋の写真が掲示してあった。石原裕次郎が患者として入院していたそうで、「内藤先生へ」(旧姓)というサインのあるレコードも飾ってあった。

裕次郎は「人の悪口は絶対に口にするな、人にしてあげたことはすぐ忘れろ、人にして貰ったことは生涯(一生)忘れるな。」というポリシーを持っていたそうだ。

冒頭の言葉は、墓碑に夫人(北原三枝)の直筆で刻まれている言葉である。自身の存在と仕事で、微笑と優しさと力と想い出と永遠という素晴らしい影響を与えた裕次郎は、俳優業については、しばしば「男子一生の仕事にあらず」と語っていたというが、俳優以上の「裕次郎」になったのである。