朝、大学。昼、出版社。夜、懇親会。

 

「副学長日誌・志塾の風」

ラウンジ

・酒井さん:入試

・杉田学部長:情報交換

・下井先生:出版会

・金先生

・杉本係長:戦略会議

 

日本地域社会研究所を訪問

・橘川・高橋・院生・教授、、、。1500円・1000部・400部・0.7、、、、。

 

夜は、白金台の「白金亭」で現役のJAL幹部(経営企画・政策業務)と懇親会。意見交換、、。

 

 

「名言との対話」1月10日。松本健一「日米関係は日中関係である」

松本 重治(まつもと しげはる、1899年明治32年〉10月2日 - 1989年平成元年〉1月10日)は、日本のジャーナリスト。財団法人「国際文化会館」理事長。アメリカ学会の会長。

松本重治は東大を出たが官禄を食むことはしたくない、会社や銀行にも入りたくないとブラブラし、アメリカに留学をする。そこで漠然と「国際的ジャーナリスト」になりたいという希望と、アメリカと中国について関心を抱くようになる。そこで漠然と「国際的ジャーナリスト」になりたいという希望と、アメリカと中国について関心を抱くようになる。1929年の京都での太平洋会議にセクレタリーとして参加。その後、この会議の延長線上に、多くの「奇縁」とともに人生が展開していく

 満州事変後の排日・抗日の嵐の中でジャーナリトとして上海に赴任した松本重治は6年間(1932-1938年)にわたって日中関係をテーマに仕事をする。内外の政治家、外交官、財界人、ジャーナリストとの多彩な交友を重ね、日中関係の正常化と和平の実現に尽力する。当時の中国の指導者はほとんどは日本留学の経験者だった。内外の主要な人々が松本重治のまわりを巡る。どの人も国益を念頭に置いて国際関係を考え仕事をしていく。立派な日本人と立派な中国人が織りなす絵柄としての歴史は大変に興味深い。

1972年の日中国交回復時には周恩来首相から、「水を飲むときには井戸を掘った人を忘れないと言う諺が中国にはあるが、岡崎先生と松本先生(松本重治)はその1人です」と感謝されている。

松本重治は「日米関係の核心的問題は中国問題である。日米関係は日中関係である」という謎めいた言葉を吐いている。日中関係は、その背景としてそのときの米中関係が色濃く反映するという意味で、単体としての二国間関係ではありえないということを示唆している味わい深い。後に大平正芳も日中関係というけれども、実際は日台関係だよ」と口癖のように外務省職員に語っている。日中関係を考える時に、寛大な戦後処理をしてくれた蒋介石率いる台湾との友好関係をどうするかが、頭の痛い問題であるという意味だった。日台関係、日中関係は、実際は日日関係の部分が大きかった。日本と中国との関係、日本と台湾との関係は、国内の中国派と台湾派との関係に尽きるということなのだ。

つまり、「日中関係は日米関係」「日中関係は日台関係」「日中関係・日台関係は日日関係」というようにぐるぐるとまわっており、外交というものは国内政治の反映なのである。

松本重治が館長を務めていた六本木の国際文化会館日航時代はこの会館には縁があってよく訪れていたが、ここを舞台に日中・日米関係を中心に国際関係の歴史がつくられていったのだと改めて松本重治らの仕事に敬意を抱いた。

(参考:松本重治『上海時代--ジャーナリストの回想(上)』(中公文庫))