多摩大シルバー・デモクラシー企画参加者懇親会。

 

多摩大シルバー・デモクラシー企画懇親会。

60代11人。70代8人。80代1人。50代1人。

多摩市。日野市。調布市横浜市。長野県。川崎市稲城市。渋谷区。相模原市府中市。町田市。世田谷区。荒川区千葉市

1分間スピーチ」多摩ウオッチングの会。湛山に刺激。心の健康。経営とITを考える会。歩き遍路。高齢化コスト。知らない世界を知る喜び。柳田邦男。メディアの会。二世帯住宅。棚田会。北杜市に小屋。50才現役。富士見町に移住、お達者クラブ。高齢化のリスク。晴耕雨読。、、、。

多摩大側は、寺島学長、小林先生、杉田先生、趙先生、金先生、私。高野課長と山本さん。

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学長:ジェロントロジー(高齢化社会工学)。山野美容。美齢学。思想の軸。大きな流れ。参画プログラムの実験。社会人大学へ。司馬遼太郎記念館。本を若い人に使わせよ。文庫。ガラクタとオタカラ。公共図書館が寺島文庫に興味。勉強会・研究会など活動の拠点。サロン。コンテンツがあるか。岐阜と京都。ライブビュイーング。文化活動の拠点。段階的接近。独居老人・病院食のセントラルキッチン。広島、熊本、、。駒沢ハウス。6万冊の本。座標軸の中でプロット。本同士のつながり。ピンポイントでなくアナログ的な物理的配架。相関性から広がり。束。、、、。

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川口松太郎「このくり返しが自分の人生であり、悔いはない。悔いはむしろおびただしい作品の中にある」

川口 松太郎(かわぐち まつたろう、1899年明治32年)10月1日 - 1985年昭和60年)6月9日)は日本小説家劇作家日本芸術院会員、戦後の大映映画の専務。1973年(昭和48年) 文化功労者。

洋服屋や、警察署の給仕、1915年大正4年)の夏から約1年間、栃木県芳賀郡にあった祖母井郵便局に電信技士として勤務などした後、久保田万太郎に師事する。後に大映明治座で重責を担う。

川口松太郎は数多くの時代小説のほか恋愛小説なども多く書いた。『人情馬鹿物語』『古都憂愁』『しぐれ茶屋おりく』(吉川英治文学賞)が代表作。

『鶴八鶴次郎』で第1回直木賞をもらった時、賛否があったが、菊池寛は「今彼に直木賞を与えれば一流作家になり得る」と言い受賞が決まった。関東大震災の後、大阪のプラトン社に勤め、直木三十五と共に働いた。この時、直木三十五は生前「小説だけはだめだから今のうちなきらめろ」と勧めており、川口は直木賞が欲しかったのである。青年時代の志がそのままで一筋に生きるということはそうそうなく、他の方面にそれる人が多い。今東光舟橋聖一とともに谷崎潤一郎門を自称している川口も純文学を志したのだが、結果的に大衆小説作家になった。

 東京都文京区春日の自宅建て替えを兼ね完成した重厚なデラックスマンション“川口アパートメント”は現存している。 仕事机は畳一畳ほどの大きなデスクで、寝台券用の長椅子を置いていた。

 川口は「芝居や寄席ばかりに通って不真面目な男だ」と非難されたが、大きな勉強になった。若い演劇志望者に、実際が先で理論は後であるから、「十冊の本を読むより一つの芝居を見ろ」とすすめている。

「人生に悔いなし」というエッセイには、人生に悔いはないが、むしろ「悔いはむしろおびただしい作品の中にある」との悔恨がある。文筆業は時間の制約の中で書くたびに新しいものを書かねばならないから、どの作品にも悔いは残るのだ。

 

 

「名言との対話」2月5日。高橋竹山「ヘタな三味線では、だれも戸を開けてくんねえ」

初代・高橋 竹山(たかはし ちくざん、1910年6月18日 - 1998年2月5日)は津軽三味線の名人。地方の芸であった津軽三味線を全国に広めた第一人者である。

3歳の時に麻疹(ハシカ)をこじらせて半失明する。その後ボサマ(盲目の門付芸人)であった戸田重次郎から三味線と唄を習い、17歳頃から東北・北海道を門付けした。

イタコをしていたナヨと結婚。名人成田雲竹に師事して戦後に各地を行脚して腕をあげる。1963年、キングレコードより史上初の津軽三味線独奏LPレコード『源流・高橋竹山の世界~津軽三味線』を発売し、竹山は津軽三味線奏者としての名声を得る。

1977年、新藤兼人脚本・監督により映画竹山ひとり旅が製作され、モスクワ国際映画祭に日本代表作品として出品される。また竹山は北島三郎風雪ながれ旅』のモデルでもある。

1986年のアメリカ公演では、ニューヨーク・タイムズが「まるで魂の探知器でもあるかのように、聴衆の心の共鳴音を手繰り寄せてしまう。名匠と呼ばずして何であろう」と最高の賛辞を贈っている。

あらためてyoutubeで竹山の津軽三味線を聴いてみた。三味を弾く竹山の風雪に耐えた無心の表情と、憂愁を感じさせる「じょんから」の演奏に感銘を受けた。また1994年に大分県日田で行われた「高橋竹山大いに語る」では、85歳の竹山が古武士のような表情で、「もう10年やれれば」と津軽弁でユーモアを交えながら味わい深く語って観客をわかせている。

門口に立ち行い金品を受け取る形式の芸能を門付と呼ぶのだが、「ヘタな三味線では、だれも戸を開けてくんねえ」は竹山が若い自分の東北・北海道での門付の経験からでた言葉である。社会の底辺で生き延びるために、閉ざされた戸を開かせようと必死で三味線を弾いて腕を上げたのである。その「じょんがら」を弾く三味線捌きは、人々の魂を揺さぶった。