榎本健一(エノケン)「喜劇を演ろうと思ってやっても、喜劇にはならないよ」

榎本健一喜劇を演ろうと思ってやっても、喜劇にはならないよ」

榎本 健一(えのもと けんいち、1904年10月11日 - 1970年1月7日)は、日本の俳優歌手コメディアンである。当初は浅草を拠点としていたが、エノケンの愛称で広く全国に知られていった。「日本の喜劇王」とも呼ばれ、第二次世界大戦期前後の日本で活躍した。

高等小学校卒業時、「僕にとって学問をするということは、あんまり好きでないそばを食わされるようなもので、それから解放されたんだから世間がいっぺんに花が咲いたように明るくなった」。いろいろ回り道をして17歳でようやく浅草の根岸歌劇団に入る。ワンパクで運動神経がよかったエノケンは、水を得た魚にようになじみ頭角をあらわし、オペラ、無声映画へ出演していく。

この間、毎日の新聞で関心を集めたニュースなどを舞台に取り入れている。歩いていてもそうだし、いろいろの職業の人の仕事ぶりを観察するなど、日頃から熱心な研究家だった。浅草の客は目が肥えていて厳しい。勉強している俳優はどんどん人気が出る。スピーディで気の利いたギャグを次々に考え出して舞台にぶつけたエノケンは人気がでた。

松竹座で座員150人、オーケストラ25人という日本一大きなエノケン劇団が発足する。そこからエノケンの全盛時代が始まる。エノケンはどんな芝居でも基礎を真剣に勉強して、それから自己流にくずしていった。だから長続きしたのだ。

浅草の松竹座で常打ちの喜劇を公演し、下町で人気があったエノケン。学生などインテリ層をターゲットとしたモダンな喜劇の古川ロッパ。両者が競い合う「下町のエノケン、丸の内のロッパ」の時代となった。

 飛んだり、ハネたり、スベッタリ、転んだり、人の頭を叩いて笑わせるのは本物ではない。喜劇はまともな芝居である。まともな芝居の中から、自然に笑いが湧いてくる。それが本当の喜劇である。これがエノケンの喜劇観である。最後の言葉は「ドラが鳴ってるよ、早くいかなきゃ」だったという。

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「副学長日誌・志塾の風」180206

・入試関係会議:人数、倍率、、、。

・海外派遣危機管理に関する会議

・事務局長:職員人事について説明を受ける

・栢原先生と懇談:リカレント教育、、、、。

 

 

 

「名言との対話」2月6日。渡辺和博「主張と収入の和は一定である」

渡辺 和博(わたなべ かずひろ、1950年2月26日 - 2007年2月6日)は、日本編集者漫画家イラストレーターエッセイストである。

1968年に広島から上京しカメラマンを目指し東京綜合写真専門学校に入学し中退。1972年、現代思潮社美学校に入り赤瀬川原平に師事。1975年、美学校の先輩・南伸坊の誘いで青林社に入社し伝説的漫画誌「ガロ」の編集者となり、面白主義を打ち出し、編集長もつとめる。

1984年、著書『金塊巻(キンコンカン)』がベストセラーになる。「「マル金」、「マルビ」で第1回流行語大賞にも輝いた、「現代の奇書」。31の人気職業(コピーライターイラストレーターミュージシャンなど“横文字職業”)を徹底的に観察し、楽しく調査研究します!ニッポンがバブルに浮かれ、ひたすら消費を拡大していったあの時代、市井のさまざまな職業の人々を「マル金マルビ」として分析し、鮮やかに時代をきりとってみせた」。渡辺和博はこの代表作で1980年代を代表し記憶された。

2003年、肝臓癌の闘病記録を『キン・コン・ガン!--ガンの告知を受けてのくは初期化された』として刊行。鋭い観察眼で、医師、看護師、患者、そして自身の手術についても鋭い観察眼で描写し話題になった。「自分の体の中にはフェラーリ1台が入っている」は、夫人の生体移植など高額な費用とともに家族の苦労があったことをいっていた。これは葬儀で赤瀬川原平が弔辞で述べた言葉だ。バイクマニア、車雑誌の連載者らしいたとえである。

生涯にわたって感性は若く「おたく世代」の前触れのような人だった。「ユルい若者」などで使う「ユルい」は渡辺の造語らしい。

34才で華々しく世に出て56才で夭折した人なので、同世代の私もこの人には興味がある。「主張と収入の和は一定である」は、コツコツ働いてある程度の高収入を得るか、言いたいことを言って低収入に甘んじるか、という選択を迫る言葉のように聞こえる。宮仕えの一面をえぐった言葉であり一理はあるが、グラデーションが濃くなるように自己主張をしだいに強めながら組織の階段をのぼっていく中間的なやり方もある。階段をのぼると制約が増すのではない。収入も増すが、それ以上に自由が拡大するのである。この妙味を渡辺は知っていたかどうか。