「副学長日誌・志塾の風」180208
・学部運営委員会
・教授会
・施設点検ツアー:昨年から始めた学内ツアー。来年度の執行部の教職員が学内資源の確認をしながら、遊休施設を発見するツアーで、その場で結論をでるケースもあるので、有意義な時間だ。私からは、「大学の玄関」と「一等地は一番大事な役割を」を最後のミーティングで提案しておいた。
確認ミーティング:川手総務課長
・ 杉田学部長:給与の考え方を相談。
・金アクティブラーニングセンター長:教学マネジメント会議の運営。入試の課題。、、
3月11日。徳川斉昭「何事にても、我より先なる者あらば、聴くことを恥じず」
徳川 斉昭(とくがわ なりあき)は、江戸時代後期の大名(親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)の将軍・徳川慶喜の実父である。
1800年、斉昭は部屋住みから、 一転御三家の第8代水戸藩主となった。諡号の「烈公」にもあるように、まさに幕末をその荒々しい気性で生き抜いてきた人物であった。 藤田東湖を側用人としていた。
検地を2年4ヶ月かかり断行。儒学よりも神学や武芸を優先する藩校・弘道館の設立。偕楽園の建設。こういった事業のために100石以上の上級藩士が3年間の半知を強制された。つまり年収の半分を費用に回したのである。
斉昭は「領国の治めかたが気随であった」との理由で強制隠居させられ、東湖は幽閉の身となった。しかし2年語に謹慎を解除され、その3年後には藩政関与が許されている。
西洋文物の導入には熱心であったが開国反対の斉昭は水戸で行った改革を「世の中」に押し広めていく。「巨砲を鋳造すべし、巨艦をつくるべし!」「国防のための蝦夷地開拓をすべし!」「アメリカに派遣してもらい開国はしないと説得する!」。「大国のちから見せばや、わが手もて、石のカラフト開けんぞと思う」と詠んだ。影響力は幕府のみならず全国に及んだ。
条約締結問題、将軍世子問題は、幕府が独自に決めて構わないものだったが、堀田老中は調印勅許を奏請したため混乱した。反対の斉昭は朝廷工作に奔走する。井伊直弼は安政の大獄で、「水戸で永蟄居すべし」と処分を断行する。それから5ヶ月後に斉昭は没した。死後、カリスマを失った水戸藩は天狗党と書生党の血なまぐさい陰惨な内戦にあけくれていく。
徳川光圀と共に、茨城県の常磐神社に祭神として祀られている斉昭は、進取の気象に富んでいた。茨城名産のコンニャクは斉昭の勧めで始められたものであるし、また農民を語る時には「お百姓」と呼んで大事にしていた。斉昭は新知識獲得のためには、プライドを捨てて教えを請うた。生涯に男女あわせて37人の子供を設けている精力的な斉昭の活動は豊富な知識量と強い信念に支えられていたから迫力があり、幕末に光芒を放ったのである。
「名言との対話」2月7日。河上和雄「はたして、この仕事だけで一生を終えていいのか?」
河上 和雄(かわかみ かずお、1933年4月26日 - 2015年2月7日)は、日本の検察官・弁護士・法学者。東京地検特捜部長、法務省矯正局長などを歴任し、最高検公判部長を最後に退官し弁護士となった。駿河台大学名誉教授。作家の三好徹は実兄。
人間は性悪であり、大多数は家庭・学校・環境という後天的な教育によって、かろうじて踏みとどまっている、また人間の精神生活は進歩していない、むしろ退化している。それが検事生活34年で得た、悪人と渡り合った仕事師の人間観だった。
河合はしないことを決めておく、判断基準を持っておく、とすっきりと生きていけると言う。
・「こういうことはしない」とか「人に背中を見せない」とか「人をうらやむことはしない」と自分の縛りを作っていけばいいんですよ。そうやっていくうちに気がついたころには、自分なりの生き方っていうのが見えてきますから。
・「最初にきたから」と判断すれば、面倒臭くなくていいんですよ。「どっちがいいだろう」なんて、いちいち悩むよりはスッキリしていてわかりやすいから。
陽の当たるところを歩いてきた。あとは検事総長になるか、最局裁の判事になるしかない。そういう未来が見えたとき、「はたして、この仕事だけで一生を終えていいのか?」という疑問が湧いた。そして「つまらないな」と考えた。
「過去に何人ものトップを見てきたけど、本当に尊敬できる人っていうのはせいぜい2人ですよ。あとは、どうしようもないヤツばっかりで……。もちろん、形の上では仕事をちゃんとやってますよ。だけど、精神的にはなんの魅力もない、そんなつまらない人生は歩みたくないですから」と、58才で退官する。
自分なりの決め事、判断基準を持っていた河合は、意義のある仕事の限界をみて、先の見えない人生を歩むことを決断している。ひからびた精神状態で過ごすであろう高い地位を捨てたその後、監査役などで関与した企業などは、ニチレイ、京都ホテル、キューピー、リキッド・オーディオ・ジャパン、ルシアン、遊戯産業健全化推進機構、石油資源開発、ROKIなどだ。2007年には、74才で「折鶴」「宗谷岬」などのヒット曲を持つ歌手の千葉紘子(63才)と再婚している。そしてテレビの真相報道 バンキシャの『ご意見バン!』としての発言している古武士の風格がある姿はよく知られている。没するまでの20数年間は、退屈ではなかっただろう。