赤坂プリンスのクラシックハウス

「副学長日誌・志塾の風」180209

多摩キャンパス

・近藤秘書と打ち合わせ

・高野課長

・山本さん:次回はアスリートで。

 

16時半:赤坂プリンスのクラシックハウスで仙台の富田秀夫さんと懇談。

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 17時半:富田さんを迎えて野田先生と歓迎食事会。春にゴルフを企画。

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韓国平昌での冬季オリンピック開会式。

 

2月29日。ロッシーニ「じゃあいいですよ、今晩もう一度オペラを聞いて覚えて、好きなところから書きます。それをお見せしますよ」

ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニGioachino Antonio Rossini, 1792年2月29日 - 1868年11月13日)は、イタリア作曲家美食家としても知られる。作品の中でも『ウィリアム・テル』序曲が非常に有名。

イタリアの副王、ナポリ王、フランス王、イギリス王、スペイン王らに仕えた人。銀行家たちに囲まれていた人。バルザックの情人を妻にした人。ダンディで、色男で、食通で、大食漢で、そして神経を病む病人。君主の保護を受け、その君主を打倒しようとする側からも保護を受けている不思議な人物であった。ロッシーニは謎めいた男だった。

劇場の支配人であり、作曲家でもあったロッシーニは、12才で「6つの四重奏ソナタ」を作曲する。それから毎年作曲し、18才からはオペラ作曲家として立っていく。ベネツィアミラノ、ローマ、ナポリ、などで自身作曲のオペラを上演・指揮する。オペラは生涯で40作品を作っている。さらにカンタータ、賛歌と合唱曲、宗教曲、声楽曲、器楽曲、作品集「老いの過ち」など、多彩な才能があったことをうかがわせる。

セビリャの理髪師』『アルジェのイタリア女』の『ウイリアム・テル序曲』など、後世に残る名曲を作曲している。『ウィリアム・テル』を見たベルリオーズは、「テルの第1幕と第3幕はロッシーニが作った。第2幕は、神が作った」と絶賛している。『ロッシーニ伝』において、スタンダールは「ナポレオンは死んだが、別の男が現れた」と絶賛している。一方で、フランス料理のメインである「--のロッシーニ風」は肉とフォアグラとトリュフを贅沢に組み合わせた料理であるが、これはロッシーニに由来している。

怠惰、快楽、無関心、色男、食通、高慢、保守、進歩、などの顔を持ったロッシーニは、世界の出来事に苦しむだけでなく、自身の才能、知性、作品に苦しめられる。何をしても、どこに行っても成功が彼を待っていた。

常に新しいものを求めたロッシーニは、 「洗濯物のリストを見せてくれ。それに曲をつけてやるぞ」と言ったそうだ。どんな注文にも応える才能と好奇心にあふれた人物であった。

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 「名言との対話」2月9日。高野悦子「興業という、文化から程遠いところで仕事をしていますが、志だけは高く持ってきました」

高野 悦子(たかの えつこ、1929年5月29日 - 2013年2月9日)は映画運動家、岩波ホール総支配人、映画プロデューサー、放送作家、テレビドラマ演出家。

高野悦子岩波ホールと「映画の仲間」」(岩波書店)を読了。 45年間の歩みを年ごとに記録したこの本は、日本映画と世界映画との優れた交流史になっている。
「受賞・受章歴」として1971年以来の賞と章の記録が載っているが、実に50に及ぶ賞と章を毎年のように受けていることがわかる。目を引くのはポルトガル、イタリア、フランス、ポーランドキューバなど外国政府からの褒章が多いことだ。また、映画、評論、地域。女性、文化、など実に多彩な分野の賞と章の名前がみえるのは、映画を軸に幅の広い活動が多くの人に感銘と影響をを与えたから違いない。

 1981年の第10回森田たまパイオニア賞の受賞理由は、「岩波ホール、そしてエキプ・ドシネマという芸術的拠点を創立、世界に誇る文化センターとした」である。同じ年の第29回菊池寛賞の受賞理由は、「岩波ホールを拠点として世界の埋もれた名画を上映するエキプ・ド・シネマ運動の主宰者としての努力」であった。

高野悦子は1929年満州生まれ。満鉄社員の父と金沢師範で教師をしていた母の三女だ。
日本女子大に入学し、指導教授の南博から与えられた課題「映画の分析調査」を行った縁で東宝株式会社文芸部で仕事をする。撮影所に配置転換を願い出るが許可されない。1958年、28歳でパリの映画大学イデックに入学する。最優秀で卒業し、映画監督とプロデューサーの資格を取得する。帰国後、映画監督になりたかったが、当時の映画界では女性監督は無理で、脚本や演出の道を歩んでいく。
義兄の岩波雄二郎が岩波ホールをつくり、そのホールの総支配人をやらないかと声をかけてくれる。高野悦子38歳の時である。その後、1974年に、世界の埋もれた名画の発掘・上映運動(エキプ・ド・シネマ)運動を開始する。もう一人の日本映画界の女性の恩人・川喜多かしこと二人で立ち上げた運動である。「岩波ホールを根拠地に、世界の埋もれた名画を発掘・上映する運動」と定義された運動が、その後の豊かな実りつくりあげていく。エキプというフランス語には、志を同じくする友だち、同志という意味が込められている。

この本のなかで登場する日本映画史上に残る名映画の名前、著名な監督や女性監督、大女優、そして映画界を支えた各界の有力者たちのとの交流を時間順に述べてあり、日本映画界を中心に世界中の映画界の歩みも手に取るようにわかる。歴史のなかで果たす個人の役割の大きさを改めて感じる。エキプ・ド・シネマロードショー作品リストがこの本に載っているのだが、このリストを眺めるだけで、高野悦子の仕事ぶりがわかる内容になっているのが素晴らしい。「積み重ね」ということの凄みを感じる。

岩波ホールをつくり、支えてきた人たちの仕事ぶりや人柄などを示すエピソードが散りばめれており、納得すると同時に愛情をもってまわりの人と仕事をしていたことに感動をおぼえる。

「よいものはかならすわかってもらえる」「私の上映作品の選び方は、『心に響く映画』というのが常だった」「私にはひとつのテーマしかない。『映画の世界で働いている女性』ということである」「すべての女性運動は平和運動をもって帰結する」(座右の銘

この日本映画史を創り上げていく過程で知り合った人々も、時間の経過とともに消え去っていくが、高野悦子は彼らの仕事を背負って、スピードをゆるめることなく、さらに歩をすすめていく。そしてまた本人が斃れる日がやってくる。これが人間の歴史だ。

 「昔、映画監督を志した者として、映画興行は私の性に合わなかった。岩波ホールの仕事を始めてすぐに胃潰瘍になったのも、嫌なことをしているからだと思った。しかし、私は映画の生みの親ではないが育ての親になることができる。劇場が名画を育てる創造の場であることの発見は、私を大いに勇気づけた。」これは1985年、創業15周年の年の項に書かれている言葉である。天職を意識した瞬間である。

高野悦子は2013年の2月9日に亡くなっているが、「岩波ホールと『映画の仲間』」(岩波書店)の発行日は2月27日である。そして「あとがき」は2013年1月である。大腸がんにおかされて余命わずかの日々に、この分厚い本を最後まで書き終えたのである。この本の幕があがった1968年の最初のページと、そして「あとがき」にもホール開きの日の野上弥生子の「小さなホール」という講演のなかの言葉が紹介されている。「この小さなホールを、可愛い小さいが、どこにもないような独特の花園に育てあげてもらいたい」。

冒頭の「志だけは高く持ってきました」は、文化功労者の授賞式での高野の言葉である。女性のロールモデルはなかなかいない。この人には、師匠、友、仕事量、志、構想力、修養、日本など、私の考える偉人の条件がすべてあてはまる。高野悦子は高い志を一生をかけて実現した偉大な聖人である。