大学院修士論文審査会・教授会・人事委員会。「谷川俊太郎展」。宮城大時代の教え子と会食。

 

品川

・10時から大学院修士論文審査会:25人の修士論文審査会。私は徳岡研究科長と一緒に3名の審査を担当。「トリプルメディア時代のORマーケティングの仕掛け方」「中国におけるビジネスホテル・フロント業務に関する提案」「T社上場実現に向けた経理部門からの組織改善の提案」を審査。

・大学院教授会:最終試験審査。優秀論文決定。大学院事業計画。来年度時間割、、。

・大学院人事委員会:再任審査。特任教授。

 

初台の東京オペラシティアートギャラリーで開催中の「谷川俊太郎展」をのぞく。若い男女が多い展覧会だった。『詩人なんて呼ばれて』(新潮社)と『二十億光年の孤独』(集英社文庫)を購入。

 

夕刻から新宿で宮城大時代の教え子との食事会。1期生で顧客満足ゼミ(久恒)の初代ゼミ長の力丸君と2期生で同窓会長の畠山君。未来へ向けて計画を語り合う愉快な時間。

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「名言との対話」2月10日。石牟礼道子「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。、、、、上から順々に四二人死んでもらう。奥さんに飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に六九人、水俣病になってもらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか」

石牟礼 道子(いしむれ みちこ、1927年3月11日 - 2018年2月10日)は、日本作家

熊本県天草郡河浦町(現・天草市)出身。水俣実務学校卒業後、代用教員、主婦を経て1958年谷川雁の「サークル村」に参加し、詩歌を中心に文学活動を開始する。熊本に根をはりつつ世界に開かれた詩人、作家、運動家だった。享年90。

冒頭に掲げたのは昭和43年から始まった水俣病患者互助会と新日本窒素(チッソ水俣工場との補償交渉でチッソからゼロ回答があったときの、患者たちの吐いた言葉である。石牟道子『苦海浄土 わが水俣病『にある。石牟礼道子はそれは「もはやそれは、死霊あるいは生霊たちの言葉というべきである」と記している。因みに鎮魂の文学「苦海浄土」は第1回大宅壮一ノンフィクション賞を与えられたが、石牟礼道子水俣病患者を描いた作品で賞を受けるのに忍びないと受賞を辞退している。1969年の『苦界浄土』から始まって、『神々の村』『天の魚』の三部作シリーズが完成するのは2004年である。2002年には水俣病をテーマに現代文明を批判する新作能「不知火」を発表した。

何もなかった状況に戻って、失われた日常を取り戻すことが、患者や家族たちの本当の願いだ。それがかなわないから補償という次善の策になった。それでも償おうとしないことに当事者も、そして石牟礼も怒りを持つのだ。石牟礼道子の誕生日の3月11日は、奇しくも2011年の東日本大震災の起こった日である。原発の災禍に見舞われた人たちの姿がだぶって見える。原発事故に水俣と同じ構造をみていたのである。死去の翌日の2018年2月11日の朝刊を手にすると、日経新聞の「春秋」も東京新聞の「筆洗」も石牟礼道子を取り上げていた。石牟礼道子の仕事は尊い

 

苦海浄土 わが水俣病 (講談社文庫)