研究開発機構評議員会。

  「副学長日誌・志塾の風」180213

多摩キャンパス

・スケジュール調整

・打ち合わせ

 

九段サテライトで研究開発機構評議員会。

多摩大傘下の多摩大学総合研究所・多摩大学情報社会研究所・多摩大学医療・介護ソリューション研究所・多摩大学ルール形成戦略研究所の4つの研究所の会議。私は昨年度から研究開発機構長を拝命。オボザーバーとして学部長、研究科長、事務局長。次回は5月。

・2017年度事業報告

・2018年度事業計画(含む人事案件)

 

 

「名言との対話」2月13日。鈴木清順「不得手なものからは奇蹟は生まれない」

 鈴木 清順(すずき せいじゅん、1923年5月24日- 2017年2月13日)は、日本映画監督。俳優。

弘前高校在学中に学徒出陣。復員後東大受験に失敗し。1948年松竹大船撮影所の助監督として採用される。1954年日活に移籍。『けんかエレージー」「東京流れ者」などで評価されたが、堀久作社長から解雇される。鈴木清順問題共闘会議が結成された。このため、10年間のブランクを余儀なくされた。

1980年監督作品『ツゴイネルワイゼン』は、キネマ旬報黒澤明監督「影武者』を抑えてトップとなり、日本アカデミー賞最優秀作品賞・監督賞を受賞。ベルリン国際映画祭では審査員特別賞を受賞した。翌年の『陽炎座』も話題になった。独特の作風は「清順美学」と呼ばれた。その後、6年間のブランクがあり、1991年『夢二』を発表し、大正浪漫三部作を完成させた。

白ヒゲ、白髪のひょうひょうとした風貌で、映画での葛飾北斎や老医師役や、テレビでの神様、住職、円谷英二、政界のドンなどの役でで出演し人気があった。この時代の清順の風貌と演技と人柄は私にも強い印象を与えた。

自身は「自分の映画は見せ物である」と言い、自由奔放に映画を作り続けた職人的な映画監督であった。

1997年に74歳の時に47年間連れ添った妻が死去。7年後の81歳で48歳年下の女性と再婚。2017年に93歳で永眠。

テレビ番組でNHK鈴木健二アナウンサーを「あれはうちの弟」と発言しスタッフや観客が驚いた。有名な健二も清順も、兄弟であることをあえて言わなかったのである。私は健二の本をよく読んでおり、30代前半で『私の書斎活用術』という本を出したとき、推薦文をもらったこともある。この二人は名物兄弟だった。

さて、鈴木清順の人生を眺めると、大きなブランクが2回ある。合わせて16年間という長さである。納得のいかない仕事はせずに、自分の撮りたい映画を好き勝手につくった。得意な技を磨きあげて、奇蹟を起こしたということだろう。