湘南キャンパスでグローバルスタディーズ学部の学部運営委員会に出席。金子兜太死去。

16時:湘南キャンパスでグローバルスタディーズ学部の安田学部長と懇談

16時半:学部運営委員会に出席:入試の状況。藤沢市との連携。ストレート卒業率。リレー講座のライブビューイング。就職の状況。離学率、、、。

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湘南台の焼き鳥屋で弟との懇親。

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「名言との対話」2月21日。金子兜太「長年の間に亡くなった人で、自分のとって印象に残っている人たち、お世話になった人とかいろいろいろ、つまり私にとって大切な、特別な人たちですが、その名前をずうっと言っていくのです。今、二百人くらいになっているかな」

金子 兜太(かねこ とうた、1919年大正8年)9月23日 - 2018年平成30年)2月20日)は、埼玉県出身の俳人加藤楸邨に師事、「寒雷」所属を経て「海程」を創刊、主宰。戦後の社会性俳句運動、前衛俳句運動において理論・実作両面で中心的な役割を果たし、その後も後進を育てつつ第一線で活動。上武大学文学部教授、現代俳句協会会長などを歴任。現代俳句協会名誉会長日本芸術院会員、文化功労者小林一茶種田山頭火の研究家としても知られる。

日銀で定年まで仕事をしながら俳句に打ち込み、55歳で定年を迎えてからが本当の人生となる。60歳で朝日カルチャーセンターの講師を師の加藤楸邨から譲られ、俳句生活が本格的に始まる。64歳、現代俳句協会会長。68歳、朝日俳壇選者。69歳、紫綬褒章。89歳、文化功労者。91歳、毎日芸術賞特別賞、菊池寛賞反戦の思い強く2015年にはいとうせいこうとともに『中日新聞』『東京新聞』の「平和の俳句」選者をしている。

銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく

彎曲し火傷し爆心地のマラソン

酒止めようかどの本能と遊ぼうか

座右の銘は一茶の「荒凡夫」。自由で平凡な男を意味している。一茶の「天地大戯場」という言葉が好きだった。「定住漂泊」の系譜に自分はいる、定住して漂泊心を温めながら屹立していこうとしていた。

金子兜太は人間の幸せというのは、煩悩のまま、欲のまま、本能のままに生きていくことであり、それこそが最高の自由だという。金子兜太のテーマは、自由にある。そして人間の実存とは、流れること、流動、しかしその都度、立場を明確にしていくことだ。
そういう価値からは、孔子ではなく、老子芭蕉ではなく一茶に惹かれる。近代では斉藤茂吉。そして種田山頭火井上ひさし小沢昭一山田洋次などがその系譜に連なっている。

金子兜太『語る兜太----わが俳句人生』中に、日航財団「地球歳時記」という項がでてくる。日航がネットワークを生かして世界中の子どものHAIKU(絵がついている)を2年毎の万博で披露する活動である。この中に、「アララギ」の歌人の柴生田稔の長子、柴生田俊一という「異才、異能」の人が地球歳時記というコンセプトをまとめたと紹介されている。このプロジェクトに貢献した詩人のジャック・スタム、作家の江国滋、早稲田大の佐藤和夫らが紹介されている。彼らには私も接触していたから、金子兜太にも夜の俳人たちの会合で会っている気もする。当時は60代後半であっただろう。この柴生田さんは広報課長で私は部下として仕えていた。「日航一の文化人」であった柴生田さんと私は気が合って実に楽しく仕事をした。私が後任となった後も、日航財団の主要プロジェクトとして続け成功した。一企業が日本文化をテーマとした活動を成功させたとして当時から評価が高かった。

金子兜太は50代半ばから日記をほぼ毎日書くようになった。日記はやめないというより、やめられない。癖になっている。「私にとって日記が唯一の財産」となる。

冒頭の言葉は毎朝唱える「立禅」と自ら呼んだ方法である。坐禅ではなく立って行う。縁のあった人々を思い出しながら生きていることに感謝する儀式だ。金子兜太は「長寿への意志」をはっきりと持って生きていた。この快老人は95歳では確か「百五才を目指す」と宣言していたのだが、本日98歳で逝去。百歳にわずかに届かなかった。

 

以下、参考資料。

語る 兜太――わが俳句人生金子兜太養生訓荒凡夫 一茶