新宿

客員の渡辺先生と新宿の京王プラザホテルで昼食を摂りながら情報交換。東北、魚、アンテナ、16年、2000回、つなぐ、長者、香港、食と音楽、サメ、ロス、舞浜クラブ、レシピロボット、開発、センター、ボランティア、京王、2日、サンケイ、、、、。

 ----

学長から電話。「多摩大出版会」

 

「名言との対話」3月8日。「すべての創造は模倣から出発する。創造が真の意味の創造であるためには、その創造のための模倣が、創造的模倣でなければならない」

池田 満寿夫(いけだ ますお、1934年2月23日 - 1997年3月8日)は、従来の芸術の枠にとどまらず多彩に活躍した芸術家

池田満寿夫は版画家、画家、彫刻家、陶芸家、作家、エッセイスト、浮世絵研究家、日本画家、映画監督などの多彩な仕事をしたマルチ・アーチストであったが、東京芸大には3度不合格となっている。本人は芸術には評価の基準がない、芸大の基準に合わなかっただけだと総括していた。1977年には初めて書いた小説『エーゲ海に捧ぐ』で芥川賞を受賞し、世間を驚かせた。

就職してJALで広報の仕事をしていた1980年代後半のバブルの真っ最中に、世界の腕のいいシェフを招いてのグルメ料理の会があった。私が座ったテーブルには、池田満寿夫佐藤陽子夫妻、そして岡本太郎がいた。池田の隣に座った佐藤陽子が「センセー、センセー」と呼んでいたのが今でも印象に残っている。

2006年に仙台の芹沢けい介美術工芸館を訪問した時、ビデオで、「私(池田満寿夫)と芹沢けい介」というNHKの日曜美術館の番組が流れており、まだ40代の若い池田を見た。

2007年の長野松代の池田満寿夫美術館では、没後10年特別展「天才・池田満寿夫を見なおす」をやっていた。50歳頃から「日本回帰」をしたのも印象深かった。

2009年に日経新聞熱海市の「池田満寿夫佐藤陽子創作の家」から書類を盗んだ疑いで市職員が逮捕されたというニュース記事を読んでその家の存在を知り2010年に訪問した。その時の私のメモには『資料館を見学。隣接は満陽工房。「女は海、男は舟」。エロスの追求』とある。

1997年3月8日静岡県熱海市の自宅にいたところ伊豆の群発地震地震に遭遇し、長年同居していたバイオリニストの佐藤陽子の目の前で愛犬たちに飛びつかれて昏倒、心不全にて急逝。享年63。

池田満寿夫が晩年に出会った表現が「陶」の世界だった。版画では意識的に日本の伝統を排していたが、「陶芸の場合は何ら抵抗なく素直に伝統回帰、日本回帰できた」と語っている。59歳でつくった「満寿夫八方釜」あたりから作風が変化した。土と火が創造と破壊を繰り返す「陶」の世界に「輪廻転生」を感じ、「陶こそが般若心経にふさわしい」と制作に挑むようになった。池田は地蔵に永遠を感じ、仏塔に描く菩薩が仏教芸術の原型と考え、仏画を粘土板に描くようになったのである。

「創造的模倣」という池田満寿夫はあらゆる表現のジャンルを渡り歩き、独創的な仕事をし続けた。模倣から始まって各分野の意味を先達以上に深く理解し、先発者を超える創造的なイノベーションを起こしていったのである。それは経営学ドラッカーの「創造的模倣戦略」そのものであった。