目黒:多摩大目黒高校卒業式で来賓挨拶。九段下:出版の仕込み。荻窪:知研セミナーの講師は日経新聞の中澤編集委員。

 9時半から多摩大学目黒高校第79回卒業式に来賓として出席。

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 349名の高校卒業者。1クラス38-39名で9クラス。厳粛な気持ちになる。

「教育」という仕事の尊さを思う。やはり教育は聖職である。自分の高校卒業時と、その後の有為転変の人生航路を思い出だす。高校卒業生の顔を眺めながら、前途に幸あれと願う。どんな人生が待っているのだろう。

中学・高校と6年間の皆勤賞が8人いたのに驚く。理事長賞をはじめ様々な賞で多くの生徒が表彰される。歌は、「君が代」。「仰げば尊し」。「蛍の光」。そして「学園歌」。

私の来賓代表挨拶。10分強。

・「外的世界の拡大と内的世界の深化」「世界はアジアダイナミズム」「時代は、人生100年・80歳現役」。「新しい人生観。キャリア3期。人生6期」。

・以下、贈る言葉。「エルバート・ハバード」「鈴木大拙」「中野孝次」「安岡正篤」「石坂洋次郎」「頭山満」「ジャン・パウル」「臼井吉見」「手塚治虫」「トルストイ」「ドラッカー」。 

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14時:九段下のホテル・グランドパレスでS出版社と企画の相談。

大手出版社の出版部長だった時代に知り合った古屋さんと久しぶりの邂逅。また彼が起業した現在の出版社の松浦副部長と愉しい時間を過ごす。提案した企画の線で検討することに。

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 17時:荻窪の日本地域社会研究所・

・知研の八木会長、福島事務局長と打ち合わせ。4月の第3木曜日18時に地研に集合して6月以降のセミナーの人選を行おう。

・18時半から知研の3月セミナー。講師は日本経済新聞の中澤編集委員。テーマは「日経「私の履歴書」ライターが語る自分史の書き方」。

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 中澤さんの人柄の滲んだ講義を20名ほどのメンバーが真剣に聴き入った。内容は明日のブログで書く予定。

終了後は、そのまま立食懇親会。懐かしい顔も。

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「名言との対話」3月16日。笠智衆「地道な努力というものも、だれも気が付かないようでいて、結局は、次第に人の目にも立つようになるものらしい」

笠 智衆(りゅう ちしゅう、1904年明治37年)5月13日 - 1993年平成5年)3月16日)は、日本俳優

俳優としてなかなか芽が出なかったが、30代に入ったばかりの頃に、「笠さん、老けをやったことがあるかい。いっぺん、やってみるか」と小津安二郎監督から声をかけられ「一人息子」に出演する。それがきっかけとなって笠智衆は日本の父親像を演じることになった。

映画の最盛期は、俳優笠智衆の最盛期だった。32歳では14本、そして戦後は50歳でフリーになった。51歳は13本、56歳では13本に出演している。

山田洋二監督の名シリーズ・渥美清主演の「男はつらいよ」は1969年からで、笠智衆は実生活では熊本の浄土真宗の寺に生まれながら継がなかったのだが、第1作からずっと柴又帝釈天の住職「午前さま」として毎回出演していい味を出している。

60代からは、紫綬褒章、男優助演賞、旭日小授章、特別功労賞、放送文化賞、菊池寛賞、東京都文化賞などを、もらうようになった。

「映画俳優が映画の中で自分を語ればいい」というのが持論だったが、日本経済新聞の「私の履歴書」に1986年に登場して多くの読者を得た。それが『俳優になろうか』(朝日文庫)という文庫になっている。その本の「あとがき」では「いま振り返ってみると、私は俳優にしかなれなかったのではないか」とある。たまたま就いた仕事に没頭しているうちに、ある日これが天職だと思うときがある。天職はそういうものではないか。

笠智衆自身の自己診断は「下手、不器用、素質もなく、要領も悪い」である。その笠を五所平之助木下恵介岡本喜八山田洋次小津安二郎ら巨匠がよく使った。地道な努力の積み重ねが、次第に薄皮をまとうことになり、いつかその衣を人が気づいてくれるということなのであろう。笠智衆は日本最高の老け役となって私たちのまぶたに生き続けている。

俳優になろうか―「私の履歴書」 (朝日文庫)