「ブリューゲル展 画家一族150年の系譜」

 上野の東京都美術館の「ブリューゲル展 画家一族150年の系譜」。

 ブリューゲル一族は170年間、5世代、18人以上が活躍した。

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ピ-テル・ブリューゲル1世(1525/30-1569)。

・「人間とは、いったい何者なのか」「我々が生きる世界とは、いったいいかなるものなのか」。

・「バベルの塔」。彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることgはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」。彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。この町はバベルと呼ばれ、天まで届こうとした塔は途中で8階で建設が終わり「バベルの塔」と呼ばれた。

・完璧で知的な自然描写。おどけもののピーテル。第二のボス。遺言執行人はルーベンス

ピーテル・ブリューゲル2世(1564-1637/1638)。「地獄のブリューゲル」。コピーを量産した長男。

ヤン・ブリューゲル1世(1568-1625)。「花のブリューゲル」(「ビロードのブリューゲル」)。ルーベンスが共同制作者。「ルドルフ2世展」の冊子の表紙はこの人の花だった。

ヤン・ブリューゲル2世(1601-1678)。「花の画家」。11人の子どものうち男子は7人、そのうち5人が画家。

ヤン・ピーテル・ブリューゲル(1628-1664)。

アブラハムブリューゲル(1631-1697)「風景画家・静物画家」

フィリップス・ブリューゲル(1635-1662以降)。静物画家・銅版画家。

フェルディナント・ブリューゲル(1637-1662?)。画家。

ヤン・バプティストブリューゲル(1647-1712)。花と果実の静物画家。

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「名言との対話」3月25日。田村魚菜「「料理或いは食べ物、というレンズのフィルターをつけて歩いてきた」

田村 魚菜(たむら ぎょさい、1914年11月23日 - 1991年3月25日)は、料理研究家。

静岡県生まれ。小学校卒業後、東京の魚屋に奉公、京橋の割烹蔦屋で料理を学び、本山荻舟、四条流石井泰次郎に師事する。1938年に雑誌『魚菜園』を創刊、戦後の1949年に東京自由ヶ丘に料理塾を開き、1955年に魚菜学園を創立。1973年からテレビの料理番組で有名になる。この時代を覚えている。

田村魚菜の誕生日は11月23日で、今では勤労感謝の日だが、昔は新嘗祭と言って日本人の主食である稲の収穫を祝った。名字は田と村という農家出身であることがわかる。名前は魚と野菜という副食である。これが本名というから、料理の道に進むのは運命かもしれない。

考えてみると、食事は1日3回として、1年1095回。そして80年人生では87600回という回数になる。100年人生では1万回を超える計算だ。おろそかにはできない。

魚菜は、学園経営、学校長、ジャーナリズムという仕事以外には、ゴルフ、油絵、狩猟、麻雀などを楽しんだ。料理はゴルフと同じく基本が大事だとも言っている。

「日本は美味しいものばかりである」と食材の豊かさを知る魚菜の観察によれば、日本は味にこだわる、ヨーロッパは食卓のムードを尊重する、アメリカは合理性だ。だから日本の家庭の食事に、ヨーロッパの演出、アメリカの合理性が加わったら最高という見立てになる。

『舌の味・人の味』という著書の中の「食べ上手」というエッセイでは、外出時には、主婦がいくら力んでも無理な料理を食べなさいという。それは、うなぎの蒲焼き、天ぷら、にぎりずしの3つだ。これを交互に食べるとよいとアドバイスをしている。

田村魚菜のいう、その人独特のレンズのフィルターとは専門性のことである。職業人とは、長い間に身につけた独特のフィルターで世の中を見る人である。損害保険のトップ企業の幹部の方と食事をしたとき、世の事象をすべてリスクという観点から見ていて敬服したことがある。学校歴という意味での学歴ではなく、生涯を通じての学習の歴史である学習歴が重要であることが田村魚菜の人生からもみえてくる。

 

参考『舌の味・人の味』(田村魚菜)。