仕事の報酬は仕事である---私の本棚

自宅の書斎を整理中。今日は、今までの著作と毎年のブログを書籍化した棚をつくった。著作は改めて年代順に並べるようにしたい。

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「名言との対話」4月3日、菊村到「仕事をするということは自分を開発し発見していくことに他なりません」

菊村 到(きくむら いたる 1925年5月15日 - 1999年4月3日)は作家小説家。本名は戸川雄次郎。

1948年、大学卒業と共に読売新聞社へ入社。社会部の記者として活動する傍らで執筆活動を行う。1957年の『硫黄島』で第37回芥川賞受賞を機として、10月に読売新聞社の文化部記者(当時)を退職し、文筆活動に入っていく。

芥川賞選考委員の佐藤春夫は「僕は菊村到一辺倒で、問題は「不法所持」か「硫黄島」かにのみあった」と表現していた。「不法所持」は違う筆名だったので両方とも候補になってしまったのである。このことだけでも菊村の尋常でない力量がわかる。

父親は小説家戸川貞雄で、兄は政治評論家戸川猪佐武である。2つ上の戸川 猪佐武は、日本の政治評論家で、元々は読売新聞の政治記者だった。『小説吉田学校』が代表作だ。この人の娘と私はJALの入社同期であり、仲間と一緒に平塚の自宅へ伺ったことがある。お父さんは動物文学で有名な戸川幸夫と聞いていたが、表札は戸川 猪佐武だった。「お父さんは政治評論家ですか」と聞いたら「父をご存じ?」と答えがあって、しばらくして本人が現れ、懇談したことを思い出した。

平塚市長の父親が出版した市長時代の回顧録には、戸川猪佐武が巻末での寄せ書きで「息子はおやじのアンチ・テーゼ」と菊村到が語っていたと記している。父も二人の息子も物書きだったが、違う分野を選んだということなのだろうか。

文筆活動に専念し始めた頃、父親と親交のあった江戸川乱歩から推理小説への転向を進められており、後年は推理小説やサスペンス小説へと次第にシフトしていったのだが、1960年代、1970年代、1980年代と多作だった。

冒頭の「仕事をするということは自分を開発し発見していくことに他なりません」の前には、「仕事というものは男にとって自己表現、自己主張であり、生きることの証なんです。」があり、後には「ですからどんな仕事にしろ受け身では仕事の中に生きがいを求めるのは無理、前向きの姿勢で意欲的に取り組んでいかなければ駄目です。仕事のための努力や苦労は、より大きな自分を育て上げるための自己投資です。」が続いている。

仕事は全力を注がなければ成果はでないから、いい仕事をしている人は自分の中の資源を開発している人であり、日々新しい自分を発見し続けている人である。菊村到は小説を書き続ける中で、自身の関心や興味のありどころを発見し、能力を確認し、それを天命として受け入れていったのだ。自己発見とは、自己を開発、自己創造していく道程の末にようやく見えてくるのものなのだ。そうして、やがて自分は本当の自分になる。