秋学期の最初の授業。二人の客員教授と懇談。中日新聞から取材。

「副学長日誌・180406」

午前

・橘川客員教授:児玉博。アジアこ子ども未来研究会。ZOOM、、、。

・「ビジネスコミュニケーション」の初回の授業。同じ時間に開講している科目も多いが、今回も受講者は多い。オリエンテーションなので、期待を高める講義。

・授業を終えた河合客員教授と懇談:幕末の偉人の定年後。(T-Studioでも出演を)

・中村その子先生

 

午後

・事務局との定例ミーティング

中日新聞の越智編集委員から取材を受ける。テーマは「遅咲き」。中日新聞東京新聞北陸中日新聞に掲載。土曜日の「考える広場」。2時間ほどインタビューに答える。

 

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 「名言との対話(平成命日編)」。4月6日。能村龍太郎「いまは知識の組み合わせ、知識の組織化が一番大事なんです」

能村龍太郎(のうむらりょうたろう、1922年5月29日 - 2006年1月19日)は、昭和後期-平成時代の経営者。

人類最初の構造物はテントではないか。軍隊の野営もテントだ。だから臨時政府は幕府という。テントに関する安全対策、不燃性、防火性、保険料率、などテントに関する学問をつくりながらテント業界を引っ張ってきたのが太陽工業の能村龍太郎だ。この会社の実践研究の結果、1970年大阪万博の会場のテントの9割以上は太陽テントになった。そして理論的には半永久的に持つ東京ドームも受注している。

風のない宇宙にはテントが向いているそうだ。砂漠に雲を呼び、海流を変えて漁場を作る夢も能村は語っている。膜面技術の鬼であり、「ミスター膜面」と呼ばれた能村は水中、土中、空中から、宇宙までを視界に置いていた。

「日本一っていうのは世界一になる可能性があります」。災害列島・日本での技術革新で、日本一のテント屋はアメリカ最大のテント会社を傘下におさめ、また世界各地に進出して世界一になった。「ピンと立てよう!太陽テント」という広告は一部で顰蹙をかい、私も笑った記憶があるのだが、能村は本気だった。

「アイデアを実行に移し、それが世のため人のための役に立って、はじめて価値が生まれるのです。その価値が利を生み、商売が成り立つのです」

「われ四十にして初めて迷い、五十にして益々迷い、六十にして迷いを極め、七十にして迷いを楽しみ、八十にして迷いを悟り、九十にして迷いを終わり、百にして迷わず」(能村は83歳で死去)

「自分の才能を見つけてくれる、育ててくれる、励ましてくれる師を求めて歩くのが人生である」

能村龍太郎は「帝国海軍は全力をもって帝国陸軍と闘い、その余力をもってアメリカと戦った」という言葉を好み、知識を組み合わせながら、新技術を追求し、商品化の過程で規制だらけの日本の官庁と戦い、「アメリカは合衆国、日本は合省国」と喝破した。「ミスター膜面」こと能村龍太郎のように「ミスター」と名がつくような仕事をしたいものである。

 

 後楽園に「天」をかける―テント技術世界一 関西企業人の経営哲学 (朝日ブックレット)