「電力の鬼」「最後の大茶人」松永安左エ門(耳庵)に関する書物5冊。

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多摩モノレールの最前列から。

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松永安左エ門に関する書物を読んできて下記の5冊を読了した。この人物が立体的に見えてきた。

松永安左エ門『電力の鬼』(毎日ワンズ)。新井恵美子『七十歳からの挑戦』(北辰堂出版)。『松永安左エ門 自叙伝』(日本図書センター)。『芸術新潮 最後の大茶人松永耳庵 荒ぶる侘び』。『茶の湯交遊録 小林一三松永安左エ門』(思文閣出版)。

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「名言との対話(平成命日編)」4月23日。木村庄之助「行司も力士も親方衆も、昔からの相撲の型、行司の型を後世に伝えるよう努力し、協会はそれができるような体制をつくるようがん張ってもらいたいものだ」

第22代木村 庄之助(きむら しょうのすけ、1890年3月1日 - 1994年4月23日 )は、大相撲立行司

1898年秋、尋常小学校を二年で中退して大坂相撲竹縄部屋に入門し、1899年6月に木村金八の名で初土俵1907年6月に木村信之助で幕下格、1909年5月十両格、木村錦太夫の名で1912年1月に幕内格となった。1922年5月に、大坂相撲に愛想をつかし1923年5月場所限りで廃業。その後、両國出羽ノ海の誘いで1924年1月に東京大角力協会に移籍し出羽ノ海部屋に所属した。初代木村林之助、初代木村容堂、12代木村玉之助から18代式守伊之助を経て、22代庄之助となった。

人格、識見、土俵態度、うちわ裁きなど、すべてにおいて抜群で、松翁の名誉尊号を許された20代木村庄之助に匹敵する名行司と称えられた。「髭の伊之助」といわれた19代式守伊之助とともに、大相撲人気絶頂である時代の土俵を裁いたが、1959年11月、65歳停年制が導入され伊之助と同時に退職した。退職後、1961年より4場所ほど日本テレビの解説、翌1962年から3年間、NHKテレビの解説を担当した。

 1959年九州場所の千秋楽をもって引退した。結びの「栃錦(寄り切り)若乃花」が最後になった。満で69歳8か月だった。子どの時代の私は若乃花が贔屓だったから、今から思うと「同じ立行司でも伊之助から庄之助になるともうひとつ責任が重い」というこの名人の裁きで楽しんでいたのである。行司界の「松翁」号は代々の木村庄之助中の抜群の名人にのみ許される尊称で、長い大相撲史上3人だけである。22代庄之助もこの尊称をもらう話があったのだが、最終的には流れてしまったのは惜しい。

・立ち合いに「ハッキョイ!」というのは「お互いに力いっぱいやれよ」という意味であり、力士が攻め合ったとき「ノコッタノコッタ」というのは「よく残したな、まだ残っているぞ、しっかりやれ」という意味で、ともに励ましの言葉である。

庄之助は104歳の長寿であったが、90歳の庄之助は「昔の相撲取りは、迫力があったな。今はただ『勝て、勝て』だけど、昔は違う。引かば押せ、押さぱ忍べといってね、踏んばる姿こそ力士の本領だった。だから力士っていったんだ……それだから、みんな体がぴかぴか光っていたもんだよ、、」「土俵へ上がった力士たちを見るとね、気力でわたしには、どっちが勝つかわかったもんですよ。勝負は、気力だったんだよ…行司っていうのは、気と気のぶつかり合いをいかに引き立てて見せるかという仕事なんですよ」と語っている。

 「行司は力士に相撲を取らせるのだという心意気、意気込み」を持っていた第22代木村庄之助の目は厳しく、それぞれが「型」を伝えることを期待し、協会はそれを支援せよという。国際化し、問題山積みの現在の相撲界を庄之助はどう見るだろうか。