長女・眞子(ピアニスト)、長男・玄一(チェリスト)、次男・基一(ヴァイオリニスト)の3人が語る父・渡部昇一。

人間学を学ぶ月刊誌『致知』が届いた。特集は「父と子」。

この中に「父・渡部昇一が遺したもの」と題した記事があった。長女・眞子(ピアニスト)、長男・玄一(チェリスト)、次男・基一(ヴァイオリニスト)の3人が父を語っており興味深かった。いずれも桐朋学園大学の卒業生だ。いい企画だ。

・それぞれ日課を課されていた。長女は百人一首、長男は論語、次男は俳句を覚えさせられた。例外をゆるさなかった。

・70歳を過ぎて10万冊の書庫を建てて以降、著述に一層情熱を燃やすようになった。50代以降に様々な分野の本を出したが、出版数では70代が最多。「週刊渡部昇一」と呼ばれたほどだ。『渡部昇一一日一言』。

・晩年になるにつれて「修養」への関心が高まった。

・「希望と感謝、そして家族の絆」が人生を貫いた柱。

渡部昇一は、子ども達が音楽の道に進んだために、高額な楽器を買うことになり、本を書きまくったと書いていたことを思い出した。それが原動力となって多くの著作が生まれたのである。その子ども達から見た渡部昇一の日常が垣間見えた。

ブクログ」でユーザーが読んだ渡部昇一の844作品が件数の多い巡に並んでいる。ここに載っていないものも含めると1000冊に迫るかもしれない。トップはやはり『知的生活の方法』だ。

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 「名言との対話(平成命日編)」5月2日。槇有恒「山は黙して語らず、されど内に深き想い有り」

 槇 有恒(まき ゆうこう、「ありつね」とも、1894年明治27年)2月5日 - 1989年平成元年)5月2日)は、宮城県仙台市出身の日本登山家文化功労者仙台市名誉市民

父は福沢諭吉門下のジャーナリストであり、槇有恒は慶応義塾大学時代に入学し慶応山岳会を創設した。第一次世界大戦末期にアメリカ、英国を経てスイスに滞在。アイガー東山稜初登の快挙を成し遂げる。帰国後は塩水港精糖や南洋拓殖の役員を歴任しながら、冬季登山の開拓、後進の指導を行い、1944年には日本山岳会会長に就任した。1951年から1955年まで再び会長に就く。1956年には日本山岳会マナスル第三次遠征隊長として日本人初の8000m峰登頂を成功させる。この快挙は、日本人の精神力と体力が世界各国に比肩するものであることを示し、自信を与えるニュースとして喧伝された。この人の名と快挙は新聞やラジオなどで大きく報道されて、日本中が沸き立った。その記憶は少年時代の私にもある。

2017年に世田谷文学館で開催された「「山へ! to the mountains」展をみた。展示構成は、山と何かを掛け合わせるという方法をとっている。文学(深田久弥)から始まり、植物(田辺和雄)、建築(吉坂隆正)、日常(田部井淳子)、漫画(坂本真一)、先駆者(小鳥烏水)。そして日本山岳会の歩みもあった。この年表に槇有恒会長の名前があり、懐かしい気持ちになった。深田久弥は「感動的な素晴らしい景色は、易々と手の届く様な所には置かれていない。最も輝かしいものは、最も困苦を要する所にある。それは人生によく似ている」と語っていたのが印象に残っている。この年表の中に、2007年12月、松本征夫「カンリガルポ山群の調査と研究」という項目を発見した。松本先生は九大探検部の顧問で可愛がってもらった人である。

槇有恒の著書『山行』は志賀重昂日本風景論』、ウォルター・ウェストン『極東の遊歩場』に並ぶ地理・地形の名著とされている。

「山を愛し山を尊び山と共に生く」が生涯を貫く信条であった。門司の風師山頂には「この頂きに立つ 幸福の輝きは これをとらふる 術を知りし 山人たちの 力によるものなり」との槇有恒の言葉が刻まれた石碑がある。山の「深き想い」とは、山の頂きに立つ幸福の輝きを味あわせてくれるところにあるのだ。近代アルピズムの開拓者であった槇有恒は生涯のテーマである「山」に人生を見ていたのであろう。

わたしの山旅 (1968年) (岩波新書)