朝、授業。昼、収録。午後、会議。夜、懇親会。

9時:授業準備。

10時:橘川先生:近況を聞く。アジア子ども未来研究会。ゲーム研究会。ブース。マッハ新書、コミケアニメイト、、、。

10時40分:ビジネス・コミュニケーションの授業の4回目。本日の実習テーマは「私の大学生活、この1年」。図解、グループ発表、全体発表。

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12時20分:T-Studioでの「トレンドウオッチャー」の収録。

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13時:事務局との定例ミーティング:入試、、、、。

15時:外出

19時:目黒の「胡桃茶家」で田村理事長主催の大学幹部懇親会。田村夫妻、宮地事務局長、清水事務長、杉田学部長、安田学部長、徳岡研究科長と。

22時過ぎ:杉田先生の車で学部運営を相談しながら帰宅。

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「名言との対話(平成命日編)」5月11日。亀倉雄作「人生のなかだるみの第一波は40代後半。問題の第二波は50代半ばにくる」

亀倉 雄策(かめくら ゆうさく、1915年4月6日 - 1997年5月11日)は、日本グラフィックデザイナー

膨大な仕事をこなした亀倉雄策の代表作はフジテレビジョンの旧シンボルマーク(8マーク)や日本電信電話(NTT)のマーク(ダイナミックループ)、1964年東京オリンピックポスターサンケイアトムズニコンFおよびヤクルトスワローズのユニフォームなどである。

デザイナーは芸術家であると同時にビジネスマンでもあるから、今現在の時点で認められなければ意味がない仕事である。亀倉は「デザインというのは不思議なもんでねぇ、毎日毎日やっていないとダメなんです」としてデザインの世界を渡っていく。「賞というものは、その時代のひとつの鏡だ」と述べているとおり、1960年から1990年にかけて、つまり45歳から75歳までの30年間に内外の数々の賞を受賞している。紫綬褒章、朝日賞、毎日芸術賞、勲三等瑞宝章、日本文化デザイン大賞、ワルシャワ国際ポスタービエンナーレ金賞・銀賞、ブルノ・グラフィック・ビエンナーレ銀賞・銅賞、ラハチ・ポスタービエンナーレグランプリ、、など時代のともに疾走したことがわかる。

そして没後に亀倉の業績を讃えるとともにグラフィックデザインのさらなる発展をめざして亀倉雄作賞が遺族の寄付により設けられている。第1回受賞は15歳年下の第二世代の田中一光である。

亀倉雄策の名は宮城大時代に野田一夫学長が学内の長い渡り廊下に「亀倉雄策コーナー」をつくったときに初めて知った。1964年の東京オリンピックの100メートル競争の選手達が一斉にスタートを切る場面を描いたポスターの作者が亀倉だった。

 デザイナーがわくわくと胸をおどらせる瞬間は、作品の校正刷りを見る時だ。興奮と戦慄、自信と不安、、。上出来の場合は「やった!ざまーみろ!」と叫びたくなる。そして「デザイナーでよかった」と心が明るくなる。これは作家・亀倉雄策の叫びである。私にも著書を刊行するときにも同じような感覚に襲われることがある。やはり作品の誕生は心躍るのである。

  人生は人と人とのつながりで成り立っている、これが亀倉の人生観だ。若い時につながった人がひとかどの人物になっていく。草野心平三浦朱門、滝口修造、、、。人生の幸福は人との出会いとつながりにある、これが亀倉の幸福感だ。

文化功労者に選ばれた時期に書いた著書『直言飛行』では、人生を考えるようになる「中だるみ」の第一波は40代の後半にやってくるという専門の医者の説を紹介している。問題の第二波は50代半ば頃にくるという。この説に当てはめると、40代後半で私は大学への転身で中だるみの第一波を乗り切ったということになる。また50代半ばから新しいテーマである「人物記念館の旅」に熱中していったのも説明できそうだ。70代半ばの亀倉雄策のこの説には納得感がある。

亀倉雄策の直言飛行