NPO法人知的生産の技術研究会:知研宮島の設立総会・講演会。

NPO法人知的生産の技術研究会。7月1日に知研宮島の設立総会。私は記念講演を行うことになっている。。広島、愛媛、、、。
 

 

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「副学長日誌・志塾の風」180514

12日の東京新聞の「遅咲き」特集。同僚や友人から「読んだ」との声が入り始める。東京新聞の読者も多いようだ。

担当の山本さんとT-Studioの「名言との対話」シリーズの相談。女性教員と客員教授

・中村その子先生「あわてず、さわがず、、、」

・梅澤先生「しなやかに」

・石川先生「?」

・渡辺さん:パンフ

・杉田学部長:情報交換

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「名言との対話」5月14日。鈴木俊一「節目節目に古井さんという人がいろいろな形で登場するんです」

鈴木 俊一(すずき しゅんいち、1910年明治43年)11月6日 - 2010年(平成22年)5月14日)は、日本政治家内務自治官僚。第9 - 12代東京都知事。

1933年(昭和8年)の内務省入省以来、国家公務員26年、東京都公務員24年、準公務員12年、計62年を地方行政に関係する仕事に一貫して従事し、東京都知事を4期16年つとめた。生涯現役で「官」の世界を生き抜いてきた人物である。

大学入学時から、内務省に入り知事になるか、外務省で外交官になるかを考えた末に3番で内務省に入る。強大な権限を持っていた総合行政官庁である内務省はGHQによって解体されるのだが、鈴木は最後の人事課長だった。

1979年に都知事に就任したときには、一般会計200億円、公営企業1500億円、計3500億円の赤字を背負っていた。処方箋をつくり、実現し、財政再建を果たしていく。内部改革では、職員定数のカット、退職手当の削減、管理職ポストの削減、特殊勤務手当を削除シルバーパスの制限、敬老金の改定、機構改革。、、、。

そして、私立高校への助成。環状線の建設。地下鉄12号線。多摩都市モノレール。都庁。都立大。国際フォーラム。東京武道館。葛西臨海水族館。江戸博。多摩中央卸売市場。姉妹都市。新宿副都心。東京オリンピック地震対策。都民住宅。ゴミのリサイクル。架橋。圏央道臨海副都心。首都高。営団地下鉄。メトロポリタンテレビ(MXテレビ)。羽田空港沖合展開。大阪万博。。、、、、。

都知事引退は1995年であるから、1959年から1967年まで8年間の副知事時代を含め24年にわたって首都東京の内外の整備に邁進している。出身が今の北多摩の昭島市であり、三多摩格差の解消にも力を入れていた。まさに地方行政の生き字引だった。

鈴木はまっとうな官僚であり、大向こうをうならせるような言葉は吐かないが、粕谷一稀が企画し御厨貴のオーラルインタビューで仕上がった475ページの大著『官を生きる 鈴木俊一回顧録(都市出版)』では、いくつか面白いことを言っている。

 「終戦といってごまかしているけど、とにかく戦争で負けたことははっきりしている」と笑いながら語っている。敗戦ではなく終戦という言葉はやはりごまかしだったようだ。

小選挙区制というのは政党構成が二大政党あるいは数個の大政党になっているという現実がないとなれない」。1955年の五十五年体制がそれであった。野党の分裂という現在の政治状況は小選挙区制にはふさわしくないということだろう。

「大蔵省は金、内務省は人」。内務省は地方行政の核となるゼネラリストを育てる風土があった。護民官という言葉があるように、地方は人が行政をやるところなのだ。

防災については、他のところで「市民が自分たちの安全を自分で守るのも当然のことである。公的機関が登場するのは、個人の守備範囲を超えたときのみで、災害当初、市民は「公は何もしてくれない」と思うぐらいの覚悟が必要だ」との見解を示している。

 

都知事4選の選挙では真向法で柔らかい体を見せて驚かされたことが記憶にある。鈴木俊一は2010年に99歳で死去。わずかに数ヶ月100歳に届かなかった。この人の立派な経歴の中でも古井喜実という若い時の上司がたびたび登場する。これほどの人でも大きな転機には必ずこの先輩に相談している。やはり、人には仰ぎ見る「師匠」が必要のようである。

官を生きる―鈴木俊一回顧録