東京新聞・中日新聞の反響、いくつか。

東京新聞の「発言」欄に先日の「遅咲きの人 伊能忠敬的生き方」の反響あり。

中村友子という女性が、「遅咲き人生」まだこれから、という投書をしている。この中で「多摩大副学長・久恒啓一さんは、百年時代をチャンスと捉えるべきだと言う」と書いていると、高校時代からの友人の松田君からの知らせでわかった。こういった反響があるのは、嬉しいことだ。他の反響や講演依頼もある。このテーマはさらに深掘りしていこう。

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「副学長日誌」5月23日。

・水谷IR室長:自己点検

・松本先生:アジア教育友好協会

・杉田学部長

・学部運営委員会:10時40分から12時半まで。ゼミのあり方。

研究室

・講演資料準備

・書類整理

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「名言との対話」5月23日。熊井啓池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢」

熊井 啓(くまい けい、1930年6月1日 - 2007年5月23日)は、日本の映画監督

 多くの監督作が『キネマ旬報』ベスト・テンに選出され、ベルリン国際映画祭ヴェネツィア国際映画祭の各賞を受賞した。日本を代表する社会派映画の巨匠である。

1964年、「帝銀事件・死刑囚」で映画監督デビューしてからは、「日本列島」(1965年)、「サンダカン八番娼館 望郷」(1974年)、「日本の熱い日々 謀殺・下山事件」(1981年)、「日本の黒い夏 冤罪」(2001年)といった日本の近現代の社会問題や社会事件を主題とした作品をつくった。

職業的生命を賭けた「黒部の太陽」(1958年)は、空前のヒットとなった。高校生時代に石原裕次郎主演のこの映画をみたが、それは熊井啓の作品だったのだ。映画の批評がエネルギーになっていたようだ。山﨑豊子は「じかに日本人の魂に訴えて来る巨大な感動感」と言い、荻昌弘は「この映画がみつめようとしたのは、、、我々「人間」が、何かものを「作る」ことの意味--それであった」と熊井の真意を理解した発言をして、勇気をもらっている。

忍ぶ川」(1972年)、「天平の甍」(1980年)、「海と毒薬」(1986年)、「千利休 本覚坊遺文」(1989年)、「深い河」(1995年)、「愛する」(1997年)といった作品は、日本の文芸作品を原作とし、人間の生と死を見つめた作品である。

「家庭にトラブルがある人は良い仕事が出来ません」、「本はいくらでも買え、勉強のための出費は惜しむな」と後に作家となった妻・明子に語っていたという。安曇野市豊科交流学習センター“きぼう”の中に、妻が寄贈した1600点以上の貴重な資料をもとに、その業績を顕彰するため、熊井啓記念館が2008年にできている。

朱子がつくったと言われている「偶成」という漢詩がよく知られている。「少年老い易く 学成り難し 一寸の光陰 軽んず可からず 未だ覚めず池塘 春草の夢 階前の梧葉 已に秋声」。若者はアッという間に年をとり、しかし学問はなかなか完成しない。少しの時間でも軽々しく過ごしてはならない。池の堤の若草の上でまどろんだ春の日の夢がまだ覚めないうちに、階段の前の青桐の葉には、もう秋風の音が聞かれる。

 妻からは偽悪的で韜晦的でもあったとも評された熊井啓は、色紙を求められると「未覺池塘春草夢」と書いた。その夢とは映画をつくることであり、強じんな精神力をもって意気軒昂な姿でその夢を生涯持ち続けた。熊井啓は少年の志を持ち続け、実現した人である。

めぐりあい 映画に生きた熊井啓との46年