「去年今年貫く棒の如きもの」--ブログ「今日も生涯の一日なり」、連続5000日目。

このブログ「今日も生涯の一日なり」が、2004年9月28日以来、本日で連続5000日を達成した。13.7年かかっている。生まれてから本日で24992日であるから、人生の5分の一はブログを書いていることになる。

ブログは毎日コツコツと一歩づつ積み上げていく感じがあるから、野球で言えばヒットを打つ感覚に近い。最初はファンである松井秀喜の連続試合出場記録1768を目標にすると冗談で言っていたのだが、その数もとうに超え、いつか名球会資格のヒット数2000を超えた。4位の松井(日米通算)を超え、長島(2471本)、王(2786本)、野村(2901)、そして日本トップの張本の3085という数字を過ぎた。メジャーリーグ2位のタイ・カップの4191本、1位の4256本のピート・ローズも、そしイチローの日米通算4367安打も越えてきた。5000日達成には、少し感慨がある。

宮本武蔵の『五輪書』には 「千日の稽古をもって鍛とし、 万日の稽古をもって錬とす」とある。鍛錬とは千、万の稽古を積み上げることなのだ。3年で鍛、30年で錬、という計算になる。日本刀造りでは鉄を叩き硬さをつくる段階を鍛といい、焼き入れで柔軟性をつけることを錬という。練り(ねり)によって硬さに加えて柔軟性を身につけた強い名刀になる。

この考え方でみると、練れるのは一万日であるから、そこに達するのは生まれてから約3万日あたりで、私は82歳になっているはずで、その時点では人生の3分の一はブログを書いていることになる。1万5千日は95歳あたり。ブログが2万日になるのは109歳。その時点では人生の半分はブログを書いていることになる計算だ。以上は空想と妄想。

「去年今年貫く棒の如きもの」と虚子が詠んだように、生涯にわたって棒の如く日々少しづつ進んで行こう。

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 「名言との対話(平成命日編)」6月7日。日高六郎「自由からの逃走」

日高 六郎(ひだか ろくろう、1917年1月11日 - 2018年6月7日)は、日本社会学者 

1941年東京帝国大文学部卒業。戦後、東大新聞研究所助教授を経て同教授。1969年、東大紛争の機動隊導入に抗議し、教授を辞職した。

市民運動家として「人間の解放とは何か」を問い続け、ベトナム反戦水俣病日米安保条約問題など現実の問題に積極的にかかわった。宿泊客らを人質に旅館に立てこもり注目を集めた1968年の金嬉老事件の際は、背景にある在日コリアン差別を指摘し、金氏を擁護した。戦後民主主義憲法擁護の立場から60年安保改定の問題点を論じたほか、ベトナム反戦の国民行動を呼びかけ、革新市民運動をリードした。戦争加担を拒否して脱走した米兵を援助する活動も、作家の小田実(まこと)や評論家の鶴見俊輔らと進めた。その後も、雑誌「市民」を創刊するなど、平和や教育、社会問題について発言し続け、市民運動の拠点として創立された「国民文化会議」の代表も務めた。
1980年代後半からはパリに住み、「九条の会」などの招きでたびたび帰国、講演やシンポジウムに出席した。

恩師の尾高邦雄教授は「日高君は思いつきと構想力の天才である。それなのに、まだ自分の仕事らしい仕事を発表していない」と不満を語っていた。鋭いジャーナリスティックな感覚があり過ぎて、社会学から離れて現実の市民運動に深入りし過ぎたという思いであろう。

日高六郎という名前は戦後のいわゆる進歩的文化人の一人であり、マスメディアで発言する勇姿はよく見かけたものだが、本日までその後もずっと生きて101歳の長寿を全うしたセンテナリアン(百寿者)である。

  ドイツ社会心理学者エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を訳したことでも知られる。「人間の解放」を問い続けた日高は、自由を見つめていたのだろう。前近代社会の制度からの解放は「--からの自由」にとどまり、次の段階としての個人の諸能力の表現という「ーーへの自由」にまでは届かなかった。「--からの自由」は得たが、孤独や責任という新しい恐怖に直面することになり、自由を手放したくなる。それがヒトラーを生んだのだ。日高六郎は高い次元の「ーーへの自由」の存在する社会を夢見た。それは自我の確立した市民が自由に表現できる社会であり、それを実現する運動に生涯を賭けたのであろう。