「大名茶人 松平不昧」展--「人生70年古来まれなり 苦40年 楽15年」

日本橋三井記念美術館で開催中の「大名茶人 松平不昧」展。

松江松平藩7代藩主。2018年は没後200年。1751年生まれ、1918年没。

17歳で藩主となった松平治郷(不昧)は、殿様時代は武芸や禅の修行を行い、家老・朝日丹波郷保と藩財政の立て直しを図り(支出の半分をしめていた江戸屋敷の支出を3割に抑えた。役職を減らし1000人を減員)、産業の発展を促した名君である。その中にはたたら製鉄(出雲地方の鉄生産は全国の40%9も含まれる。松江藩の黄金期。40年間の治世で参勤交代は19回。不昧の「御立派の改革」によって、天明の大飢饉でお松江藩は一人の餓死者も出してない。

56歳で隠居してから江戸・品川大崎の2万2千坪の敷地に11の茶室を持つ下屋敷をつくり、最も気に入っていた茶室「独楽庵」を側に置いた。「佗茶」の精神を持つ茶聖利休を讃えていた不昧のメッセージは「利休に帰ろう」だった。後に「不昧流」と呼ばれる「自分を高める茶道」であった。

江戸後期は人々がライフワークに目覚めた趣味の時代だった。不昧は金魚、相撲などにも興味を持った。名物茶道具の収集では900点を超える所有の茶道具をまおとめた「雲集蔵帳」、名物茶道を解説した「古今名類じゅう」などを残した。増田鈍翁は不昧を尊敬する茶人。「お茶は湯を沸かして飲む。ただそれだけ」。江戸の古典落語の「そばの殿様」、「目黒のさんま」のモデルも不昧らしい。

「習にかかはり、道理にからまれ、かたくるしき茶人は、田舎茶の湯と、笑ふなり」。

松江が京都、金沢と並ぶ茶どころとなったのは不昧の存在が大きい。文化人サロンを主宰するプロデューサーだった。不昧は68歳で逝く。「人生70年古来まれなり 苦40年 楽15年」と不昧は言った。隠居の時代は「楽」の時代だという意味だろう。

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「喝」とは、全身全霊から発する叱声。絶対の真理を表す。

「茶禅一如」。

「不昧」の号は、「意志が強く、物欲に惑わされることなく、身を滅ぼさない」という意味の「不落不昧」から取っている。

茶の湯の本意五ヵ条。

「世の中はまめで四角ででやわらかでとうふのようにあきられもせず」は自画賛。

  参考「今に生きる不昧--没後200年記念」(山陰中央新報社)。

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多摩大出版会編集委員会準備会合。

私。松本多摩大総研副所長。杉田学部長。下井研究委員長。総研の池淵客員主任研究員。

今後の進め方。編集委員会のメンバー。、、、、。

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・池淵さん:各種プロジェクトの意見交換

・金先生:入試の「質」向上対策

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「名言との対話」6月11日。原田利勝「?」

原田利勝(1938年2月10日-2007年6月11日)は、明和地所創業者。

北海道砂川市の出身。東洋大学に進学。特待生として柔道を続ける。主将を務め、東京オリンピック強化選手としても名前があがる。 大学を卒業後は、博報堂を経て大京(当時、大京観光)に入社。オイルショック後、徹底した地域密着型の経営を行い、厳しかった同社の経営を立て直し、大京の黄金時代の立役者となった。次期社長が確実視されていたが、原田専務は1996年、矢を持て追われるように退社する。 「一生、大京のために尽くす」と考えていた原田氏は、やむなく大京時代の元横浜支店のメンバー数人とともに「明和地所」を設立。1996年に東証二部に株式上場、1998年に東京証券取引所市場第一部に指定 するなど業績をあげた。

通夜には2500人が会葬し盛大だった。「推進役となって東洋大柔道部の隆盛期をつくりあげた」「心の大きな方だった。」「人間の生き方、男の生き方を、仕事の基本を学んだ」、、、、。原田が大京観光に入社した当時を知る人は「何しろ那須の別荘を売っていた時代、有象無象の集団だった。原田さんは、そんな中で〝掃き溜めに一輪の花〟のような存在だった」と語っている。

思い出すのは、私がJAL広報時代にオーストラリアのケアンズブリスベン線開設時に、デベロッパーとしてブリスベンのリゾート開発にあたっていた大京の方々と接触したことだ。バブルの時期でもあり、景気のいい歓談だったが、当時は原田利克勝にも勢いのあった時期だったのだろう。

明和地所設立から数年後、東京都国立市の「大学通り」沿いに明和地所が建設した高層マンションが景観権を侵害するとして、周辺住民らからマンションの部分撤去と損害賠償を求められた訴訟が「国立マンション訴訟」として有名になった。東京地裁は高さ20mを超える部分の撤去を命じたが、東京高裁明和地所逆転勝訴の判決を言い渡し、2006年3月に最高裁で確定した。 建物の高さ制限を20mとする国立市の条例はマンション建設を妨害する目的で違法だとして市に損害賠償などを求めた訴訟でも、2008年3月に最高裁で勝訴が確定した。明和地所は勝訴で得た損害賠償金と遅延損害金計約3120万円を全額国立市に寄付するという粋なことをやった。「訴訟は市の違法性を確認したかっただけ。賠償金は市民の血税から払われており、受け取れない。学校内の楽器や福祉センターの充実に充ててほしい」とのコメントを出した。

このような事実をみると、この企業には一論の花といわれた創業者・原田利勝という人物の創業の精神が生きている感じがする。