「釈宗演と近代日本」展(慶応義塾大学)

慶応義塾図書館等で開催されている釈宗演遠諱100年記念特別展「釈宗演と近代日本」展。

釈宗演(1860-1919年)は、1893年のシカゴで行われた第1回万国宗教会議(コロンブスアメリカ発見400年記念)に福沢諭吉の援助を得て参加し、初めて世界に「ZEN]を紹介した。日本仏教、仏教を世界宗教地図の中で位置づけながら「近代」と格闘した。欧米、東アジア諸国を精力的に巡り、グローバルに活躍した禅僧である。

27歳で慶応義塾に入学し、51歳の福沢諭吉と出会う。3年間、西洋学問を学び。卒業後にセイロンに留学し2年半滞在。32歳、円覚寺管長(北鎌倉の円覚寺北条時宗が蒙古襲来による戦没者供養の寺)。翌年1893年、万国宗教会議に出席。「仏教の要旨並に因果法」「戦ふに代ふるに和を以てす」と題して講演。1897年、弟子の鈴木大拙を渡米させ、オープン・コート出版社でケーラスや宗演の著作の翻訳に従事させる。1903年建長寺管長を兼任。1904年、日露戦争勃発に際し従軍布教師として満州に渡る。1905年、渡米しルーズベルト大統領と会見。1906年、欧州諸国を歴訪。セイロン、インド、香港、上海を経て帰国。1911年、朝鮮。1912年、夏目漱石参禅。満州巡遊。1915年、台湾。1914年臨済宗大学(後の花園大学)学長。1914年、円覚寺管長に西院。1915年、漱石の葬儀で導師。1916年、朝鮮、満州、中国。1919年、61歳で没。

セイロンでは、小乗仏教大乗仏教が交流・連帯しながらキリスト教の西洋諸国に向き合うという理想を描く。

人は神によって罪が許されるのではなく、自らが為した行いによって罪が生まれ、自らの行いによってのみ罪は清められる・この「縁起の教え」はアメリカの宗教者には驚きであった。因果の理は宇宙を支配する。釈迦はこの自然の法則の最初の発見者である。

1897年に渡米した鈴木大拙(号の大拙は宗演から贈られた)は英語に堪能で仏教に精通。10年以上、大拙は西洋との窓口となった。

二度目の渡米ではルーズベルト大統領と会見。大拙の通訳で、日露戦争、武士道、女子教育、世界平和、宗教問題を語り合った。仏教が欧米化し、耶蘇教が日本化、東洋化することで、世界の平和がもたらされる。

日露戦争で従軍布教師となった宗演は、精神講話、慰問、戦没者の葬儀を行った。野戦病院では敵兵にも情を抱いた。国家鎮護の円覚寺管長の使命であった。一ヶ月以上「不沐不浴。又不浣濯。土灰満頭」という状態であった。「心の平和を与ふる宗教は戦時に於いもっとも必要に候」。

参禅者は、山岡鉄舟夏目漱石、原三渓浜口雄幸河上肇、石栗陸軍軍医総監、藤山雷太、後藤新平明石元二郎、九鬼隆一、平沼騏一郎夏目鏡子、、、。

漱石28歳、宗演35歳での邂逅。『門』、『行人』、、、。

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・八木会長:日経の中澤さんの講演記事録。

・事務局との定例ミーティング

・「邪馬台」。「知研フォーラム」。「遅咲き」

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「名言との対話」6月13日。村田英雄「足がなくても歌は歌える」

村田 英雄(むらた ひでお、1929年昭和4年1月17日 - 2002年(平成14年)6月13日)は、日本演歌歌手俳優

4歳で初舞台、13歳で浪曲師・酒井雲坊の名でデビューし、天才少年浪曲師と呼ばれた。「日本一の浪曲師」を夢見て、妻子を九州に置いて上京し、25歳で村田英雄に改名する。

1958年、古賀政男に見出され、『無法松の一生』で歌手デビュー。1961年11月に発売した西條八十作詞船村徹作曲の王将が戦後初のミリオンセラーとなり、翌1962年第4回日本レコード大賞特別賞を受賞。以後、数多くのヒット曲を飛ばし、国民的歌手となっていく。

1981年頃、ビートたけしが自らの番組で取り上げた事から、若年層のファンが急増し、三橋美智也のミッチーに対抗し「ムッチーブーム」と言われるようになる。

 1988年、同年代で同時期に活躍し、歌謡界をリードしてきた三橋美智也春日八郎と「三人の会」を結成、ジョイント・コンサートなどで活動した。

村田英雄の歌で私の耳に残っているのは、王将、皆の衆、姿三四郎、夫婦春秋、祝い節、男の一生、人生劇場、無法松の一生、夫婦酒、空手一代、、などだ。野茂英雄は、実父が村田英雄のファンだったことから、英雄と付けられたという。

没後の2004年に故郷の佐賀県唐津市に「村田英雄記念館」がオープンした。年に1回の「村田英雄音楽祭」、「生誕祭」(1月17日)が行われている。

NHK紅白歌合戦には1961年に初出場、1989年までに通算27回の出場を果たしたのだが、村田は野菜嫌いで肉食であったこともあり、その人生は「糖尿病との闘い」でもあった。35歳で糖尿病を発症。1996年には右膝下12センチで切断。2000年1月には左足も同様に切断し、車椅子生活となる。「足がなくても歌は歌える」は自ら鼓舞をした言葉である。生涯現役のまま、村田英雄の豪快な「人生劇場」は73年の幕を下ろした。