会議二つ--アクティブラーニングと入試「質」対策

 

大学

・10時40分:アクティブラーニング支援センター運営委員会:経営情報学部、グローバルスタディーズ学部、大学院の責任者・担当者。授業評価。図書館。ICT教育。

・12時半:入試「質」改善対策ミーティング:杉田学部長、金入試委員長と。

14時半:高野課長:出版会

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「名言との対話(平成命日編)」6月18日。山本直純「直純死すとも音楽死せず!」

山本 直純(やまもと なおずみ、1932年12月16日 - 2002年6月18日)は、日本作曲家指揮者

山本直純東京芸大の作曲科から指揮科に転じた。後輩の小澤征爾は後に「音楽のピラミッドがあるとしたら、オレはその底辺を広げる仕事をするから、お前はヨーロッパへ行って頂点を目指せ」と述懐している。大衆の中に音楽を通じて飛び込んでいく仕事をライフワークとしたが、それは大学指揮科在学中に眼を患い、視力の著しい低下から次々に新しいスコアを読み込み暗譜してコンサートに乗せることに不安を覚えるようになったからである。少年時代に読みふけった太田黒元雄『歌劇大観』の影響もある。

博学の山本の蘊蓄を聞いてみよう。「ギリシャ悲劇の出演者と観客の間に応援団がいる穴をオーケストラと言った。歌舞伎で効果音を出す下座である。その後、王侯貴族の使用人となった親衛隊がステージの上に登・第一バイオリンがなるコンサートマスターが臍である」「オーケストラを聴くのにいいのは、天井桟敷、左の真ん中、二階の前の左側」「比較的寿命の長い楽器は、ヴァイオリン、ピアノ、そしてオペラ歌手で、オペラ歌手は40、50を超えてから完成することも可能で、遅咲きの人も多い」「音楽ほどすばらしいものはない。その音楽を趣味にもった人間は幸福である。が、ひとたびそれを職業としたとき、それは音が苦となるからだ」「呼吸法の訓練にもなるフルートは結核などの病気にいいし、舌がよくまわるようになり、フルートの半分の長さのピッコロは牛若丸の横笛のようなものだ」私がいつか楽器を始めなら、ピッコロからにしようか。

大学在学中からテレビや映画の分野に積極的に進出し、ポピュラーからクラシックまで幅広く作曲活動を行うようになる。同時に、テレビなどを通したクラシック音楽の普及・大衆化に力を注いだ。山本直純を有名にしたのはテレビ番組「オーケストラがやって来た」である。1973年から10年間の人気番組で、音楽を全国の茶の間に届けた。私もこの番組で愉快なオジサンの姿を見、とをよく聞いたものだ。1982年から1998年までサントリー佐治敬三社長の後押しで行われた大阪城ホールの「1万人の第九」を成功させるなど、クラシックの大衆化に力を注いだ。

指揮者としての座右の銘は「名馬ムチいらず」。オーケストラが動きたいようにうまく乗ることが大事だという意味だ。先生の斎藤秀雄が言った指揮法として優れたアドバイスだ。斎藤秀雄小澤征爾岩城宏之尾高忠明らを育てた人だ。指揮についてのシステムを確立し、指揮法を後進に伝えた唯一の日本人だ。斎藤の父は斎藤秀三郎といい、日本の英和辞書を初めて編纂した人である。

「直純死すとも音楽死せず!」と叫んで指揮台からステンコロリと落ちて死にたいと願った山本直純は、急性心不全のため69歳で死去した。鹿児島県南種子町郷土館内に1998年に「山本直純音楽記念室」が開設された。墓石には上田敏の訳詩集タイトルの「海潮音」の文字が彫られている。

山本直純クラシック音楽の大衆化による人々の民度をあげ、幸福度をあげる仕事をライフワークにして、その道を迷うことなく歩んだようだ。確かに「直純死すとも音楽死せず」だ。山本直純は大衆に音楽に親しむきっかけを与えた影響力の大きい偉い人である。 

オーケストラがやって来た

オーケストラがやって来た