「漱石俳句集」より--宇佐八幡の句

宇佐出身の千葉雄君と電話で話したのをきっかけに、『漱石俳句集』に宇佐八幡を詠んだ句があったのを思い出した。漱石の俳句はいい。好みだが、子規よりも好きだ。

 

 松の苔鶴痩せながら神の春

 南無弓矢八幡殿に御慶かな

 神かけて祈る戀なし宇佐の春

 ぬかぢきて曰く正月二日なり

 宇佐に行くや佳き日を選む初暦

 蕭條たる古澤に入るや春の夕

 

宇佐八幡以外の句。

 元日や吾新たなる願あり

 詩を書かん君墨を磨れ今朝の春

 温泉や水滑らかに去年の垢

 天と地と打ち解けりな初霞

 初夢や金も拾はず死にもせず

 歯ぎしりの下婢恐ろしや春の宵

 金泥の鶴や朱塗りの屠蘇の盃

 そそのかす女の眉や春浅し

 永き日や欠伸うつして別れ行く

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「名言との対話(平成命日編)」7月10日。つかこうへい「間だの芸だのいらない。芝居はF1レース。0.01秒間違えると死ぬという真剣勝負を観に、客は来る。金を払って車庫入れを観に来る客はいない」

つか こうへい1948年4月24日 - 2010年7月10日)は、日本劇作家演出家小説家

1974年に自身の劇団を立ち上げ、8年後に一端解散したがその後も劇団やセミナーの立ち上げを行い後進の育成にも尽力し、多数の俳優や脚本家を育て上げたことでも有名。

"つかこうへい以前(第一世代)"、"つかこうへい以後(第三世代)"と呼ばれる程の一時代を築き、1970年代から1980年代にかけて一大 " "つかブーム"を巻き起こしたことで知られる。

稽古は、「口立て」という、しゃべりながらセリフをつける演出法であった。「作家が机の上で書く台詞は4割。あとの6割は稽古場で役者が自分に書かせてくれるもの」との考えで、稽古を重ねるごとにセリフが変わっていく。初日と楽日とでは演出が異なった。演出は「役者が持っている個人の生活史、言葉の生活史を探してやり、言葉のいい選択をしてやるため」のものだった。つかは、「生の刺し身」のような生き言葉を体全体から発するように役者に要求するのだった。「演出家の仕事は、漁師が、魚が知らないうちに網にかかってしまったと。いうように、観客を演出家の網にかけること」。

NHK「あの人に会いたい」を改めて観たが、「希望・愛・夢」や「ハッピーエンド」を語っている。役者の一番いい姿を引き出したいとする気迫あふれる演出は、新しいセリフを次々と生み出していく。つかこうへいは、役者を愛おしみ、人間をこよなく愛す人であった。「男と女の愛おしく思い合う力さえあれば、国は滅びん」みたいな、そういう夢を持ってみたい、と42歳のつかは1990年に語っている。そして、「愛情」と「大嫌い」の振幅の幅が大きいほどいい、演出家だと言う。「人を愛したり信じたりすることは今いちばん惨めな勇気を必要としている時代。それでも人を愛したり愛おしく思っていかなくちゃいけない」。1983年の「かけおち」では、大竹しのぶ沖雅也北村和夫が熱演していた。

熱海殺人事件』『ロマンス』等と並ぶつかこうへいの代表作の一つが「蒲田行進曲」だ。1980年には第15回紀伊國屋演劇賞を受賞、1982年には、小説『蒲田行進曲』が直木賞を受賞し、深作欣二監督で映画化され大ヒットした。この小説と映画は話題になった。

「人間にとって大切なのは、何を恥と思うかです」というつかは「文化とは『恥の方向性』であり、日本人はそれがわからなくなってきている」と嘆いた。在日韓国人二世であり、日本語がわからない母にもわかるように、名前をひらがなにしたのだ。死後に公表された最期のメッセージ(2010年1月1日付)には、「恥の多い人生でございました」とあり、『娘に日本と韓国の間、対馬海峡あたりで散骨してもらおうと思っています』、とあった。

「間だの芸などはいらない」と言う演劇界の革命児・つかこうへいは、岸田国士戯曲賞ゴールデン・アロー賞演劇賞、紀伊國屋演劇賞団体賞、日本アカデミー賞最優秀脚本賞読売文学賞などの賞を席巻している。「芝居はF1レース」といい、62歳の短い生涯をF1ドライバーのように、疾走したのである。