細田守監督のアニメーション映画『未来のミライ』

細田守監督のアニメーション映画「未来のミライ」をみた。

先日、東京ドームシティのギャラリー・アーモで、「未来のミライ展--時を越える細田守の世界」をみてきたので、その仕上げである。

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細田守

1967年生まれ。」12歳、小学校卒業時にアニメーション監督を将来の夢として記す。中が校では画家を志し、風景画に熱中。15歳、文化祭で2分半のペーパーアニメーションをつくり上映。16歳、角川映画少年ケニヤ」の宣伝用イベントに先のアニメを応募し合格。上京を勧められるが学業を優先。18歳、金沢美術工芸大学に入学(油絵)。23歳、東映動画東映アニメーション)にアンメーターとして入社。28歳、演出家になる。33歳、スタジオジブリに出向。34歳、東映アニメーションに復帰。

38歳、『時をかける少女』(動員数18.6万人)。41歳、『サマーウオーズ』(動員数123万人)。43歳、スタジオ地図設立。44歳、『おおかみこどもの雨と雪』(344万人)。47歳、『バケモノの子』(459万人)。2018年50歳、『未来のミライ』。

「二千年、三千年の間に培われた普遍的な美を、アニメーション映画に応用できるんじゃないだろうか」

「いままでに見たことのない表現をつくりたい」

「自分でわかっているものは、わざわざ映画にしてもつまらない。自分でわからいことを映画によって解明したいということがあるのかもしえれない」

「どの作品もつねに、新しい何かを生み出そうという思いでバッターボックスに立っていますよ」

「時間をテーマにしたものは、作品そのものも時間の中でより多層的になっていく」 

細田守の世界――希望と奇跡を生むアニメーション

細田守の世界――希望と奇跡を生むアニメーション

 

  

細田守 ミライをひらく創作のひみつ

細田守 ミライをひらく創作のひみつ

 

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「名言との対話」。8月14日。山口小夜子「意図を排除して自分を無にすることから、本質に触れる」

山口 小夜子(やまぐち さよこ、1949年9月19日 - 2007年8月14日)は、日本ファッションモデル。

モデルを志した山口小夜子は、当時はハーフ、西洋化がキーワードであり、なかなか採用されなかったが、最後に「そのままでいい」と山本寛斎に見いだされデビューする。1972年にはパリコレクションに起用され、次いでニューヨークコレクションにも出演した。1973年資生堂の専属モデルとなる。人形師、茶会、、など日本を題材とした背景の中で神秘的な魅力を放つCMは話題になった。

黒髪のおかっぱ、切れ長の目、深紅の唇。山口小夜子のぞくぞくするような美しさは、世界中に「ジャパネスクブーム」をまき起こした。1977年にはアメリカのニューズウィーク誌の「世界の6人のトップモデル」の1人に選ばれている。この年には「SAYOKOマネキン」が世界中のショーウィンドを飾り、当時の日本人に勇気を与えている。

山本寛斎、髙田賢三、イブ・サンローラン、ジャンポール・ゴルチェら一流のファッションデザイナーに愛され、セルジュ・ルタンス、横須賀功光などトップクリエイターのミューズ(美の神)となってイマジネーションを与えるなど、山口小夜子は「日本人であること」を強く意識して時代の先端を走り続けた。

ファッションモデルだけでなく、衣装デザイナー、ダンスパフォーマー、エッセイスト、そして演劇に出演するなど表現者として多彩な活動を世界を舞台に展開した人だ。アジアン・ビューティ、東洋の神秘、スーパーモデルなど賞賛のこ声にあふれていたが、この人の私生活は謎に包まれている。

いくつかのインタビュー映像を見たが、質問にはつねに一呼吸おいて、言葉を選びながら答える姿が印象的だ。、、着ることは、生きること。気持ちがいい着方が個性。自分をなくす、そこから入り、本質に触れる。心が体を着ている。地下鉄でも、家でも、空気でも、光でも着ることができる、、。禅問答のようなやりとりが多い。

2007年に57歳で急性肺炎で独死する。2015年には「山口小夜子 未来を着る人」という展覧会が開催されており、また秋にはドキュメンタリー映画「氷の花火 山口小夜子」が公開されるなど、今なお山口小夜子は生きている。コシノジュンコは「モデルを超えた人だった。いつも一人。心の中は一人という感じの人だった」と死後に追想している。冒頭の言葉も何やら神秘的だ。「禅」の香りがする。そういえば1975年の資生堂の香水は「禅」という名前がついていたことを思い出した。最初から最後まで謎に包まれた人である。