ザビエル記念聖堂

山口市のザビエル記念聖堂。

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イグナチウス・ロヨラ(「1491-1556年)とフランシスコ・ザビエル(1506年生まれ)。15歳の年齢差。

ロヨラは、重傷を負い療養生活に入る。聖人伝に感動し、軍人を辞めて、神と共に歩む決心をする。1540年にはイエズス会を創立。

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27歳のザビエルは、同室となったロヨラの感化を受ける。これは大回心と呼ばれている。ロヨラの言葉は「人は全世界を手に入れても、その魂を失ったら何の益があるだろうか」だった。

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フランシスコ・ザビエル

34歳、インド。36歳、インド、ゴア。39歳、マレー半島、マラッカ。42歳、インド、ゴア。42歳のときに、日本渡航を決める。

1549年、43歳で鹿児島に到着。44歳、平戸。平戸から山口まで船と徒歩で。大内義隆に引見。45歳、戦乱の京へ。山口へ帰り拠点にする。宣教の許可をもらい、2ヶ月で5000人に洗礼。豊後の大友宗麟から招待される。日本を去る。46歳、中国への旅。病で没。わずか、2年の日本滞在。

キリスト教の国であっても、そうでない国であっても、盗みについてこれほど節操のある人々を見たことがありません。この国の人々は今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人々は異教徒の間では見つけられない。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がない。驚くほど名誉心の強い人々で、他の何ものよりも名誉を重んじる。大部分の人々は貧しいが、武士も、そういう人々も貧しいことを不名誉とは思わない」と観察を報告している。

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南大沢で『102歳の平穏死』の著者、井上貴美子さんと懇談。知研で話をしていただこう。以下は、いただいた長尾和宏氏の「平穏死とは何か」から。

平穏死とは最後を自然な経過に委ねること、穏やかな最後を迎えること。枯れて死ぬ。脱水への旅。高齢者はエネルギー効率が良くなる。反対語の延命死は溺れ死ぬこと、8割。枯れて死ぬと沈静は必要ない。言い出しっぺは患者自身がいい。平穏死は人生の最終段階の生き方。穏やかな最後。平穏死とは、無理な延命治療を行わず、人間としての尊厳を保ちながら穏やかに旅立つこと。

尊厳死=終末期の判断が降ったら、不必要な延命治療を止める。痛みを取る緩和ケアは受ける。安楽死=終末期前の段階で、医師が幇助する自殺。

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 「名言との対話」。9月24日?。太田薫「「君、ステーキ食ったことがあるか。労働者がステーキ食える世の中にしなきゃ」

太田 薫(おおた かおる、1912年1月1日 - 1998年9月14日?24日?)は、昭和期の労働運動家日本労働組合総評議会議長。春闘方式を定着させた人物。

宇部窒素に入ったが、第2次世界大戦後労働運動に身を投じた。1958年から1966年まで総評議長を務める。「太田-岩井ライン」と呼ばれる指導権を確立。 60年の安保,三池両闘争を乗切り、経済闘争に力点を置いた「春闘方式」を定着させた。民間単産・合化労連委員長の太田と官公労国労出身の岩井章のコンビだ。太田の春闘方針は「資本との独立」「ストライキ」が基本だった。「みんなで渡ればこわくない」というのが春闘誕生のきっかけだった。「神武以来のストライキ」、「ヨーロッパ並みの賃金を」、「青年よハッスルせよ」と人びとを鼓舞し、日本の賃金を国際的水準にまで高めることに貢献した。

威勢の良い数々の発言は太田ラッパの愛称で親しまれ、1960年代は「昔陸軍、今総評」とまでいわれた総評の全盛期だった。1987年まで総評の顧問であり、新聞やテレビでの歯切れの良い発言はよく覚えている。

1979年の美濃部都政の後継を選ぶ京都知事選で鈴木俊一に敗れた。1989年の全日本労働組合総連合会(連合)の発足で、社会党左派を支持した太田の影響力は低下した。

「労働者がステーキ食える世の中にしなきゃ」は、1965年ごろ、国鉄労働組合員に語った言葉である。戦後のある時代を率いたリーダーだった庶民派の太田薫の大衆に向けたメッセージは、時代の核心という的にあたっていた。

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「名言との対話」9月24日。永井英明「名人の残した足跡を幹にして、しっかりとした枝葉をつくて将棋界がさらに発展するよう願っております」

永井 英明(ながい ひであき、1926年大正15年)3月8日 - 2012年平成24年)9月24日[1])は、日本の将棋アマ強豪、近代将棋社社長。

1946年、中央大学在学中に菊池寛を顧問に将棋の会「青棋回」を結成、1950年昭和25年)に雑誌「近代将棋」を創刊する。1981年から1990年までNHK杯テレビ将棋トーナメント司会を務める。大山康晴とは近代将棋創刊から大山の死去に至るまで親交が深かった。1974年から1977年にかけて、東西の将棋会館の建設資金捻出のために全国各地を一緒に歩く。将棋普及のために、中国、インド、韓国、ブラジルの旅にも同行した。40年以上連れ添った大山名人の秘書役であった。

大山康晴名言集 平凡は妙手にまさる』(佼成出版社)という著書があり、今回この本を熟読した。大山名人のもっとも身近にいて信頼されていた人だけに、「人生の名人」と本人が語る大山の日常の行動の記述と、その言葉の拾い方がいい。1994年に永井は第1回大山康晴賞を受賞している。本望だったのではないだろうか。

2007年、「永井英明の盤寿を祝う会」において、長年に渡る将棋普及への功績に対し、日本将棋連盟からアマ八段を贈呈された。盤寿とは、数え年81歳のこと。将棋盤のマス目が「九」×「九」=「八十一」になることから。現役で盤寿を迎えた棋士は、近代将棋史上ではまだ存在しない。この永井自身も将棋界の恩人だったのだろう。

「盤上に繰り広げられる駒たちのドラマは、対局者同士がつくった共同作品」。

冒頭の言葉は、1993年発刊『大山康晴名言集 平凡は妙手にまさる』(佼成出版社)の「おわりに」にある最後の言葉だ。漫画家には、マンガ雑誌「ガロ」の編集者の長井勝一がいるように、表舞台に立つスターの影には、彼らを押し出すインフラとしてのメディが必ず存在する。将棋界では永井英明がその役を担ったのだ。