「筒井康隆展」始まる

世田谷文学館で本日から始まった「筒井康隆展」をみた。

表現者としての、間断のない、膨大な仕事に驚いた。クラリネット奏者、SF作家、小説家、テレビタレント、、、など活動の舞台は広い。29歳で小説家になる決心をしてから、著書は300冊を軽く超えている。中年の危機は、関西テレビの人気番組「ビーパップ・ハイスクール」へのレギュラー出演で乗り切っている。この番組には私も二度呼ばれて、「面白かったですよ」と声をかけられたことを思い出した。本も何冊か購入してきたので、それを読んでから詳細を書くことにしたい。

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午後は、九段でインターゼミ。

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「名言との対話」10月6日。安田幸吉「コース造りは庭造り、下手な人でも楽しめるように」

安田 幸吉(1905(明治38)年3月1~2003(平成15)年10月6日)。日本のプロゴルファー。

日本オープンで2位が連続3回(1928年、1929年、1930年)。日本プロで2位1回(1929年)。関東プロ2位3回。

日本プロゴルフ殿堂では、以下のように紹介されている。

子供のころから東京・駒沢にあった東京GCでキャディーをしており、17歳からレッスンなどプロとしての活動をスタート。関東ではプロの先駆けであった。クラブの製作や修理にも長けており、1927年には昭和天皇へ献上するクラブ製作の任を受けている。勝利には恵まれなかったが安定した成績を残し、1929年には宮本留吉とともに日本人プロ初の海外遠征メンバーに選ばれてハワイアンオープンに参戦、17位に入っている。その後、2度の米国本土遠征メンバーにも入り、1935年には全米オープンにも出場した。1957年に組織された日本プロゴルフ協会の初代理事長(現在の会長職)に就任。1991年にはプロゴルフ界初となる叙勲(勲三等瑞宝章)の栄誉を授かった。また、コース設計家としても手腕をふるい、小樽CC(北海道)など50を超えるコースの設計や監修、改造に携わっている。

実力的には互角と見られていた宮本留吉日本オープンだけで6勝しているのとは対照的に、「無冠の帝王」と呼ばれた。優勝がないのが不思議な実力者だった。昭和32年に結成された日本プロゴルフ協会の初代理事長。平成3年にはプロスポーツ界初の勲3等瑞宝章。享年98。レッスンや、クラブ製作でも人気を集めた。TVレッスンにも出演。

プロ引退後は、北海道の旭川国際カントリークラブから、鹿児島のインタナショナルGR京セラまで、50コース以上を設計・監修している。やわらかい表情のコース設計が特徴だ。私がプレーしたことのあるコースでは、  表蔵王国際ゴルフクラブ多摩カントリークラブがある。いずれも気持ちのいいコースとの印象がある。千葉県の長南パブリックコースには「お隣のメンバーコース 長南カントリークラブとともに 小湊鉄道 経営 安田幸吉 設計」と名前も刻まれている。

日本プロゴルフ界の創成期を牽引した安田幸吉は、いつの間にか姿を見かけなくなったと思っていたら、ゴルフ場設計・監修のプロとして大活躍していたのだ。ゴルフ場設計は庭造り、と安田はその信条を語っている。日本庭園は、池を中心にして、土地の起伏を生かし、庭石や草木を配し、四季折々に観賞できる景色を造る。滝、石を組合せることによる石組、池や流れを渡る通路には太鼓橋、飛び石が使われるのが特徴である。ゴルフ場設計は、広大な土地をキャンバスにして、土地土地の特色を生かし、プレイヤーの目を四季折々に楽しませる仕事だ。安田幸吉は、現代の庭師になったのだ。