首都大学東京の国際交流センター「ルヴェソン ヴェール」でランチコンサートを楽しむ

南大沢の首都大学東京の国際交流センターの「ルヴェソン ヴェール」で昼食。

アンサンブル・カンフリエのランチコンサート「フランスの作曲家の作品を集めて」をやっていた。ピアノ、バイオリン、フルートの3人組。

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 フルートは、フィルハーモニックに所属。バイオリンは、薬学専門の医学博士でメディカルライター。フルートは京大音楽研究会で活動し、現在は埼玉在住、関東各地で演奏活動。それぞれ仕事を持ちながら、音楽活動を続ける、これは素敵な人生だと思いながら音楽を楽しんだ。

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午後は、原稿書き

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 「名言との対話」10月7日。三木鶏郎「辛うじて 人生八十 たどりつき」

三木 鶏郎(みき とりろう、1914年大正3年〉1月28日 - 1994年平成6年〉10月7日)は、作詞家作曲家放送作家声優、歌手、構成作家演出家、コピーライター、である。

2浪して東京帝大法科入学、2留して卒業。兵役後、「どうせ餓死するならやりたいことをやって死にたい」と音楽の道に進む。NHK「歌の新聞」、「日曜娯楽版」、「ユーモア劇場」など社会風刺を中心とする「冗談音楽」で放送界で活躍した。「僕は特急の機関士で」、「田舎のバス」がヒット。CMソングの元祖になる。「明るいナショナル」「ワ・ワ・ワが三つ」「ジンジン仁丹、ジンタカタッタッター」「牛乳石鹸、良い石鹸」などを作詞作曲した。これらのCMソングは、今でも私の耳に残っている。

門下からは歌手(楠トシエ中村メイコなど)や俳優(逗子とんぼなべおさみ左とん平など)、永六輔野坂昭如いずみたく、など多くの異才を世に送り出している。1993年には、三木鶏郎音楽賞が創設された。ジャズ評論家・司会者の三木鮎郎実弟で、この人のスマートな姿と語りもよく覚えている。

午前は創作、午後は経営者、夕方は教育者、夜は外食、夜明けまで飲み歩きという超売れっ子生活を送る。その結果、40代半ばで糖尿病を患う。「功なり名をとげて糖尿を知る!!」と三木鶏郎は言い、「長病」と命名。覚症状がない病気であり、養生を怠りがちになる。その闘病を描いた『私の愛する糖尿病』(ちくま文庫。1994年4月21日発行。1981年の書籍の加筆版)を読んだのだが、ユーモアあふれる筆致に脱帽する。1958年、 44歳で糖尿病。これ以降検尿日誌をつける。当時は「人生50年」が少しづ伸び始めた時期だった。76で平均寿命に追いつき、77の喜寿で追い抜く。その頃は「昔は人生五十、今や人生八十、世界一の長寿国」といわれていた時代だ。それから3年後の80の傘寿直前では「生き抜いて 人生八十 大団円」。「辛うじて 人生八十 たどりつき」は、1994年、死を間近にして改訂版としてマウイ島の山荘で詠んだ句である。短命といわれる糖尿病に打ち勝った人の感慨だろう。

私の愛する糖尿病 (ちくま文庫)

私の愛する糖尿病 (ちくま文庫)