日本未来学会・理事会

快晴の秋。路上で 絵を描いている人がいた。

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 午前:大学

・入試質向上ミーティング:杉田・金。宮地・森島。

・近藤秘書と打ち合わせ

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14時・目黒の多摩大情報社会研究所で日本未来学会の理事会。

12月15日の「日本未来学会50周年記念大会」の企画会議。林光会長、公文俊平先生、和田事務局長、橘川さん、中川大地さん。

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終了後、和田さんと中川さんと喫茶で懇談。「現代ゲーム全史」の著者の中川大地さんは落合陽一「デジタルネイチャー」の編集者。さっそく、2冊を注文。

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「名言との対話」10月29日。三遊亭圓楽(5代目)「噺家は人生の語部(かたりべ)である」

5代目三遊亭 圓楽(さんゆうてい えんらく、1932年昭和7年)12月29日 2009年(平成21年)10月29日)は、落語家

21歳、六代目三遊亭圓生の一番弟子として入門。29歳、真打ち昇進し五代目三遊亭圓楽を襲名。33歳、テレビ放送を開始した「笑点」にレギュラー解答者として出演。45歳、師匠の圓生と共に落語協会を脱退し、落語三遊協会を設立。52歳、江東区に寄席「若竹」を建設。56歳、若竹を閉鎖。63歳、23年間司会者をつとめた「笑点」を勇退し、桂歌丸に譲る。「借金返済のため、噺家として大事な50代に全国を講演で回った。悔やんでも悔やみきれない」と語っている。76歳で死去。今なお「笑点といえば、圓楽」のイメージは生き続けている。 

修行は嫌いではなかった圓楽は。「ああ、いっぱしの奴だね」と言われるような仕事をしたいと六代目三遊亭圓生に入門をかけあうが、「ざっと五十年は食えませんよ」といわれるが、頼み込んで一番弟子になる。

圓楽は「落語若手四天王」の一人だった。後の3人は以下。月の家円鏡(後の橘家圓蔵1934年昭和9年〉4月3日 - 2015年平成27年〉10月7日)。立川談志1936年昭和11年〉1月2日 - 2011年平成23年〉11月21日)。古今亭志ん朝1938年3月10日 - 2001年10月1日。悪口を言われるから談志より先に死にたくないと語っていたが、圓楽の方が2年早かった。『圓楽 芸談 しゃれ噺』には、この3人の仲間・ライバルがよく登場する。20代でロンドン空港で志ん朝のお世話をしたこと、そして仙台で晩年の談志の語りを聴いたことを思い出しながら、この分厚い本を愉しんだ。

 この人は自分で考えたキャッチフレースが多い。「湯上がりの顔」から始まり、「星野王さま」「名人圓楽」「ベルサイユのばら」「落語の宣教師」「正義の味方」「バンビちゃん」、、。ちょっときざでペダンティックなキャラクターとして通した。

落語についてどう考えていたか。「人を笑わせるのが一番むずかしいですからね。一番簡単なのが怒らせること。泣かせるのもそれほどむずかしかないんです」「大衆芸能だから、マジョリティを相手にしなければならない」「これほど面白くて、深みがあって、人情の機微をこれほど細やかに、ときに温かく、時にユーモラスに描いた芸能はない」。

落語界での身の処し方についてどう考えていたか。「焼き餅を焼いていると自分が小さくなるから考えないようにしている」「引き際が肝心。惜しまれているうちに、さっと身を引くのが一番」「世の中ってものはジワジワ変えていくべきだ。人間は極端な変化は好まない」。座右の銘は「得意平然 失意泰然」。

最後に「落ち」(サゲ)がつくのが特徴であるから「落語」というのだが、圓楽はこの言葉を好まなかった。入門した三遊派は人情噺の系統で、人物描写に主眼を置いていた。人情噺は人生観を盛り込んで語っていけるということで、圓楽には合っていた。三遊亭圓楽は、人情噺を中心にした人生の語部(かたりべ)たらんとしたのだ。

圓楽 芸談 しゃれ噺

圓楽 芸談 しゃれ噺