ポッドキャスト配信の今後。ZOOMの実験。「シン・知的生産の技術」。歴代天皇のお言葉。

・「こえラボ」の岡田社長来訪。私のポッドキャスト配信、登録は3000人、毎月のダウンロードは15000。ポッドキャスト配信の今後について協議。スポンサー、アレクサ、中国、、、、。

・知研の八木会長来訪:「シン・知的生産の技術」の進捗。フォーラム編集。

・高野課長:近況

・佐保君:ZOOMの実験。山本さんも立ち合い。

日本地域社会研究所の落合社長から電話:歴代天皇のお言葉、、。

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「名言との対話」10月30日。白川静「洞門は開かれておらず、急遽帰洛して鑿(ノミ)を振るわねばならぬ」

白川 静(しらかわ しずか、1910年4月9日 - 2006年10月30日)は、日本漢文学者東洋学者

若き日に「一生、読書をし続けよう」と決心する。崩壊し続ける「東洋」の源像を求めようとし、世界で最もふるい歌謡集『詩経』と、日本の『万葉』は希有の古代文学、この比較研究を行う。中国と日本の古代文化に共通する東アジア的特性に、わが国で発明された「東洋」の出発点を求めた。20歳前後の時である。

約3000年前の甲骨文字や金文という中国の古代文字を、トレーシングペーパーを使って写し取り、何万枚も写す作業をコツコツと続けた。45歳のとき、「口」が「くち」ではなく、神への手紙を入れる器「サイ」であることを発見する。1954年に教授になるが、人より10年遅かった。大学卒業が10年遅いのであるから、人より10年長く仕事をする以外にないと考える。

60歳になった頃には、100本を超える研究論文を発表していたが、「学問の成果は、普通の人にもわかるものでなくてはならない」と、初めて一般向けの本『漢字』(岩波新書)を書いて、多くの読者を得ている。

65歳で定年になる。その後、70歳まで特任教授。73歳まで大学院で教える。そして73歳でやっと自由の身になる。「一歩ずつ運べば、山でも移せる」と考え、『字統』(6800余字)、『字通』(上代語1800余語)、はそれぞれ2年、『字通』(見出し漢字総数約1万字の漢和辞典の最高峰)に6年、合わせて10年計画を立てる。毎日毎日、同じペースで書き続け、5万枚を超える原稿を一人で書き上げ、13年半かけて3冊の字書を完成させる。ページ数の合計は、3,000ページを超える。これによって毎日出版文化特別賞、菊池寛賞、三部作の完成で朝日賞を受賞。

89歳の時の計画がある。著作集12巻をまとめる、いくつかの出版物を再編集する。月1冊の割合でも5年はかかる。仕事の継続には適度の緊張を保つことができる定期的な企画を持つのがいい。年4回、5年で完結する「文字講話」を企画した。

「愚かしい戦争」で負けた戦後の国語政策では1950字に制限されたことを批判している。「おもう」は「思う」だけになった。「想・念・憶・懐」という字に「おもう」という訓は与えられなくなった。努力しないで習得される程度のものでは優れた文化は生まない。漢字の活性化による過去の豊かな文化の回復を目指すべきだ。源泉としての古典を大事にすべきだ。「衰えている漢字を復活させれば、漢字を使い続けてきた東洋の国ぐにも復活できるはず」との考えだった。

74歳で初めての賞である毎日出版文化賞特別賞(1984年)を受賞。以後、菊池寛賞1991年)。朝日賞1996年)。京都府文化特別功労賞(1996年)。文化功労者1998年)。勲二等瑞宝章1999年)。第8回井上靖文化賞(2001年)。福井県県民賞(2002年)。94歳では最高峰の文化勲章2004年)を受賞している。

志を決めて、不断に計画する。 構造的、体系的に見る、歴史的に展開するとして見、その上で解釈学的に問題を考えるという方法が白川静の研究だった。「洞門は開かれておらず、急遽帰洛して鑿(ノミ)を振るわねばならぬ」は菊池寛賞授賞式での挨拶である。中津の「青の同門」を題材にした菊池寛『恩讐の彼方への』の主人公・禅海和尚に自身をなぞらえた。250年ほど前に、人びとの往来のために、岩をノミだけで約30年かけて掘った。白川静はその禅海和尚の心境で、コツコツとノミを振るう96年の人生を全うしたのだ。高齢化社会に生きる人びとに勇気を与える生き方だ。

回思九十年

回思九十年