人間国宝

 「名言との対話」11月12日。藤原啓「筆を土にも変えただけ」

藤原 啓(ふじわら けい、1899年2月28日 - 1983年11月12日)は日本の陶芸家。本名は敬二

岡山県備前市の瀬戸内海の入江が目の前に開ける絶景の地に立つ藤原啓記念館と、2001年から始まったアートオリンピアと、湯河原にある人間国宝美術館とが合体してできた美術館(山口伸広理事長)がF A N美術館である。藤原のF、アートオリンピアのA、人間国宝のNからとった名前である。その景色を見ながら、啓の息子の藤原雄の茶碗でお茶をいただいた。藤原啓は、抒情詩人から40歳で陶芸に一転した人物だ。1970年備前焼人間国宝に認定される。

人間国宝は、それぞれの分野の現役が一人だけが指名される。備前焼の第一号は現代備前焼きを始めた金重陶楊だ。陶楊の作風はきびしく精悍である。第二号がその弟子で古備前を評価した藤原啓で、その作風はおおらかで素朴である。第三号はろくろの神様と呼ばれた山本陶秀(1906ー1994年)。第四号は藤原雄である。息子の藤原和(1958年生)には巨大作品が多い。啓の作品は単純・明快・豪放であり、雄の作品は温和で剛胆である。

藤原啓は1899年、現在の備前市稲穂に生まれた。少年時代から文学を志望し、俳句や小説に熱中した。同郷の正宗白鳥に対する憧れや、賀川豊彦の「一粒の麦」に刺激をうけて、19歳の時に代用教員の職を投げうって上京する。東京では人生を知ろうとする思想の遍歴の20年間であった。若い詩人たちとの交遊、博文館での編集の仕事を通じて知り合った文壇の人たちとの交流、そして絵や音楽も学んでいる。しかし文学の道を進むという志は果たせないまま、38歳の藤原啓は東京を去って故郷に帰る。故郷では正宗白鳥の弟の惇夫の勧めで46歳から備前焼きを始める。特殊な勘と技術を要する備前焼きは、金重陶楊の指導によって、しだいにものになっていく。

備前は古くから日本有数の焼き物の産地であった。千年前の「延喜式」に明記されている。桃山から江戸にかけて紹鷗、利休、遠州ら茶人が輩出し、そのために茶器が尊重された。江戸の中期・後期には多様化と量産化に傾き、備前焼きは芸術性を失って低迷期に入った。その流れを再興したのが、四人の人間国宝たちである。

東館、本館2階は人間国宝美術館、平田郷陽卑弥呼などの人形、村上隆草間弥生ピカソの焼き物、なども観賞した。L館ではベンツのアウマートシリーズがあった。横尾忠則がペイントしている。アートオリンピアは、アートのオリンピックで、2015年には世界52ヶ国4186名のアーチストが参加。入選作品は東京、ニューヨーク、パリに募集拠点を設けた。各拠点で80位以内に入れば世界で作品が発表される。

 藤原啓は「はちきれんばかりの健康美を持った田舎娘のようなもの」と当時の備前焼を評し、桃山風の茶陶写しよりも、鎌倉期の力強い作風に引かれた。そして、単純、明快、豪放を作陶理念とし、藤原備前の骨子としていく。藤原啓の作風に対しては、「厳しさと甘みが渾然」というアメリカ人のクレーソンの評価がある。

井伏鱒二が藤原啓を「抒情詩人から陶芸家に一転した」と言ったように、詩魂を持つ藤原啓は「筆を土に」変えた啓。取り組む対象は違っても、表現者である自身は変っていないのであろう。遅咲きの藤原啓は故郷で花を咲かせた。その花はいくつもの世代が引継いでみごとな大輪の花になっていったのだ。