インターゼミ。

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「名言との対話」11月17日。木村義雄誰にでも全盛期はある。問題は、そこをどれだけ長く続けられるかだよ」

木村 義雄(きむら よしお、1905年明治38年)2月21日 - 1986年昭和61年)11月17日)は、将棋棋士十四世名人。最初の実力制による名人、かつ最初の永世名人である。

江戸っ子である下駄屋の職人の子。関根名人の紹介で柳沢保恵伯爵邸に書生として住み込み、慶應普通科に入学。外務省に給仕として入る。その間に勉強して写字生、書記生、そして外交官試験を受けるという考えだったが、転向して将棋の道を進む。

将棋界と新聞は縁が深い。木村は報知新の嘱託として、読者に向けて名人の講評や講習会を開き定跡を説明した。「二十年にわたる新聞社生活では、広い意味での社会学を学んだ。」「人間修行に自分ほど恵まれた者は少ない。文章も書き習った。」。野村胡堂芦田均、清沢冽、、、などの人物と接した。これが自分の強みだと意識し、一度失った名人を奪還する。

「人間と人間との戦いは、人間そのものが全面的に反映する、技術は末だ。棋士としての態度と心境を養おう」「競争相手のあることが技を磨く上において、最も大切である」「努力型は、、コツコツ修行を怠らないから、外観は地味でも指しこぼしは少ない」「自分より強い棋士を養成するには、自分が先ず強くならなけれなばならぬ」。信条は「勝ち将棋を勝て」であった。相撲で不敗を誇った双葉山と並びよく知られていた。こういう心がけであったから、木村は何をやっても一流になっただろう。作家の坂口安吾は「青春論」で「彼(木村)は心身あげて盤上にのたくり廻るという毒々しいまでに驚くべき闘志をもった男である」と讃えている。

大橋宗桂初代名人以降、、、小野名人、師匠の13世関根名人まで一代制名人が続いた。関根名人が引退し、一代制名人の時代は終わり、2年以上の実戦を通じて実力制名人として初めて木村が14世名人の座を得た。第六期名人戦で10歳ほど若い塚田八段敗れるが、第八期名人戦で、名人位に復位。第九期で大山、第十期で升田を退け、八期十年の名人保持者となる。第十一期で29歳の大山に敗れる。このとき47歳の木村は「良き後継者を得た」と言いこの言葉が有名になる。木村は十四世名人となった。

日本将棋連盟会長として、今日も続いている順位戦制度を創設して、近代将棋をけん引した。報知新聞嘱託として長く観戦記を執筆し名文家として知られた木村には、 名著『将棋大観』がある。

木村が生涯を閉じた11月17日は、「将棋の日」であった。満年齢81歳の「盤寿」での死去だった。将棋盤はタテヨコ9マスであり81マスがあることからきている。修行を一生と心得ていた木村義雄の生涯は将棋の神に魅入られた生涯であった。

「我が名局は敗局の中にある」「絶対有利が最大の危機であり、絶対不利は絶対有利に通じる。勝負は最後の一手を指し終えた時に決まる」など、木村は将棋に関する名言を残しているが、誰にでも全盛期はある。問題は、そこをどれだけ長く続けられるかだよ」は、実力制名人を八期十年続けた木村義雄の言葉だけに、迫力がある。一瞬の火花ではなく、長い時間光続けることこそが、あらゆる分野における名人への道なのだ。

 

ある勝負師の生涯―将棋一代 (文春文庫)

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