大学院で「立志人物論」の講義。 テーマは「修養」と「構想力」。日本人、中国人、イタリア人、ベトナム人。

夜;品川の大学院で「立志人物論」の講義。

テーマは「修養」と「構想力」。

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以下、日本人。

 今回(11/30)の学びについて記述します。・修養(身を修め、心を養う):一生かけて人徳を磨いていくこと。二宮尊徳は苦学を重ね、生涯で600以上の大名旗本家の財政再建と農村の復興事業を推進した。野口英世は母の苦労に報いるため、左手に障害を抱えながらも医学の発展に命を賭した。安岡正篤歴代総理大臣の指南役として尽力し、その名を馳せた。人間は学び続けなければならない。学問をしない人間は、面相・言語が卑しくなる。ビジネスでこれまでに数百名の人と対面しましたが、学ぶことを放棄した人間の面相・言語は卑屈であるということを実感しています。新渡戸稲造は教養と勤勉さで、生涯において膨大な仕事をこなした。人生をかけて人徳を磨いた彼ら、だからこそ今も語り継がれる偉人と成り得たのだと考えます。構想力:着想と計画を結びつける力。後藤新平は大ぼら吹きと言われながらも、壮大な計画をうちだし、およそ100年が経過した現在、後藤新平の計画は実現されています。また、関東大震災の復興を成し遂げた人でもある。私は宮城県名取市閖上、3.11で壊滅した町の出身です。震災前に過疎化がすすんでいた町ではありましたが、現代に後藤新平のような政治家がいれば、私の故郷はもっと違った形で復興をしたのではないか、と残念さを感じました。徳川光圀は大局観をもって「大日本史」の制作を志し、徳川光圀の死後も志を引き継いだ者たちが制作を続け、250年の歳月をかけて「大日本史」を完成させた。構想力とは、着想と計画を結びつける力であると同時に、志を引き継ぐ人間を育てる力なのだと考えます。自分が死んでも後進が成し遂げる、そこまでの大局観をもつことが、構想力であり、後藤新平徳川光圀もそれがあったため、今も語り継がれる偉人となっているのだと考えます。ひるがえって自分はどうであろうか。一生かけて人徳を磨いていくこと、目の前の仕事をこなすことに精一杯で、「一生をかけてこれを極めたい」という志を意識したこともありません。着想と計画を結びつける力。着想をすることはあっても計画にむすびつけるところまでいかない、計画をたてても計画通りになることは少ない。恥ずかしい限りです。今回の講義を経て、深く反省しました。しかし、しかし、久恒先生からいただいた言葉。「物事を極めるには30年が必要。まだ間に合う」非常に勇気づけられました。これから30年、いや、死ぬまで修養し、人徳を磨き、構想力も身につけて人の役に立てる人間となること。なんなら、閖上を復興させることが人間になること。今後の歩むべき道が見えた気がします。古きに学び新しきを知る。立志人物伝の講義はまさにそのことを教えてくれます。

・今日は野口英世のお話を伺う所からのスタートでしたが、英世は幼少の折に事故で左手を不自由にしました。当時の考え方からいって、母親の自責の念は想像に絶すると推測され、その感情が英世をしっかり育てようと重労働にも耐えた根底にあったと思いました。加えて、英世も田舎で困窮した生活、かつ、障害を持っているという境遇が彼の世に出たいという欲求に拍車をかけ、功を成す礎となったのだと思いました。英世は典型的な天才型で人格がやや破綻していると思いますが、研究においては正確無比な技術力を駆使して様々な結果を出していきます。高い個人の技術力に裏打ちされた論文は凡人には再現性が乏しく、一説にはこれがノーベル賞を逃した大きな理由であり、これを受けてより再現性の高い研究を行うべく現在のガーナに入った所、自ら黄熱病に罹り命を落としました。後世の研究が英世の正当性を認めますが、研究のみならず、この時代において世界に出て活躍したという事が最も功績に値するのだと思いました。水戸光圀においても、青年期の兄に対する遠慮からの反発や史記への傾倒というところは非常に感情が細やかな人物であると推察されます。ドラマ同様勧善懲悪の思想は残した書物をone sidedの視点ではなく、歴史を俯瞰して捉えることに重きを置いています。この感情は青年期に不条理な扱いを見てきたからこそ身につけてしまったものであるとともにこれが徳川慶喜に受け継がれてしまったのは皮肉とすら言えます。帝に弓を弾かざる美学は恐らく儒教による所があると思います。清廉潔白な思想が維新の流れには通用していない、噛み合っていなかったというのが実情だと思いました。歴史を見るときに、俯瞰して人物のバックボーンを鑑みて理解をする事が光圀流だとするならば、これこそが未来に生きる歴史の学びであると改めて思った次第です。本日もありがとうございました。また、ディスカッションでは留学生の方々からジブリやゲーム、マンガなどのお話を聞かせて頂きました。自分の知らないことを学ぶのがとても良いと思います。

・本日は、「修養」と「構想」について学ばせて頂きました。やはり、あまり聞かなくなった言葉かもしれません。後世に名を残す人は、人一倍努力しているという事だと思います。今回の授業では、新渡戸稲造が印象に残りました。明治初期の時代に英語を駆使して国際連盟で活躍し、日本の女子教育に貢献する学校を創設するなど、当時としては時代の先端を走っていたと思います。いまでは、あたり前のことでも明治の日本では理解できなかったに違いありません。語学力という観点では、後世に国広正雄に影響を与えたことは、興味深い事です。学生時代にNHKの英会話番組で国広先生の明快な解説に感心したものです。どこかで師弟関係で繋がっているのは不思議です。「構想」では、後藤新平がその高い能力を発揮したと思われます。南満州鉄道の総裁、東京市長などスケールの大きい構想で後世にも充分役に立つ都市計画を立てています。東京駅の計画にも携わり、大きさで当時は無駄使いの大風呂敷と陰口を叩かれたようですが、現在の東京駅でも規模が小さい気がしますので、後藤新平の先見性に驚かさせられました。いつの時代にも型破りな人がいるものですが、後世に評価されることを成し遂げた人は、やはり普段のたゆまぬ努力をしている人ではないでしょうか。徳川光圀、いわゆる水戸黄門のことですが、我々の世代ではテレビの影響で黄門様が印籠をかざして、悪を懲らしめるイメージが強いです。史実では、歴史を編纂した学識高い人物であったことはあまり知られていないようです。徳川家の私的な事業として日本の歴史が完成するまで250年の歳月がかかっていたとは、驚くべきことです。日本人の勤勉さにあらためて敬意を持ちます。歴史教育は大事なことのように思えます。

 

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以下、外国人留学生。中国人、ベトナム人、イタリア人。

野口英世は本当の偉大人物ですね。私は元々医者さんその職業を崇拝します。人の命を救うことだった。1歳時、火傷で左手を変形するが苦難を経たことは初めて聞きました。だから、野口英世の話し「障害者であることは、学問においては問題にならない」。健康の私たちが、人生の困難を直面しないの理由はなしわけだ。徳川光圀、歴史の人物ね。調べたらまだ困った。関する資料がめちゃ多い。今日のグループは日本人vs留学生1:3、わからないことを知らせるはありがとうございます。「三人行へば、必ず我が師あり」

・今日の授業で学んだ野口英世は、千円札に肖像が載っていたので授業で見てこの人が野口英世なのだなと思いました。調べてみると黄熱病研究において主に南半球諸地域で偉大な功績を残されていて、多くの国の人たちを救っているのだということがよくわかりました。最期は研究の中で黄熱病に罹り若くして亡くなりましたが、最期まで研究を続ける姿勢は私も学ばなければならないと思いました。

野口英世は1876年11月9日、福島県の田舎で生まれ、 父はギャンブラー、家族は村で最も貧しいです。 若い時に偶然にストーブに落ち、左手に大火傷を負いました。15歳になった英世は、左手の障害について書いた作文がきっかけで、クラスメイトからの募金が集まり、手術を受けて左手に少しの自由を取り戻しました。手術をしていた医者を見て、後に医者になることを決めた。英世は医師免許を取るために、恩師・小林栄からの多額の援助を受けて、試験は、発合格しました。21歳で医師免許を取得し、蛇毒の血清学的研究、梅毒スピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆患者の脳病理組織内で発見、京都大学より医学博士の学位を、東京大学より理学博士の学位を授与されます。1913年、野口は日本に戻りましたが、日本の医学界は、野口英世のことを認めませんでした。彼は怒って、米国に戻り、決して日本に帰ってこなかった。ノーベル医学賞に3回候補に名前が挙がったが、最後は受賞していませんでした。継続的な学習と研究の態度は私が学ぶ必要があるものと思います。

・今回は「修養」をテーマに、偉人の事を勉強した。そのなかで、安岡正篤の『人間は学び続けなければならない。学ぶことをやめたら、人間でなくなる。』という名言を凄く共感します。社会の変化への適応を疎かにしないことの大切さ、とも言えるかもしれません。しかし、学び続けられる人とそうでない人とでは格差が生まれます。社会で活動したり、社会の変化に適応したりする上で、学び続ける姿勢は必須です。学ぶことを止めた場合、過去の経験でしか判断できない結晶性知能だけを見れば過去に生きることになります。学ぶことは人の器を大きくさせ、人生を豊かにしてくれます。また、現在を生きるという視点からも学び続けることは重要な役割を果たします。比較的学習意欲が高いほうだと認識しているのですが、学び続ける人生に少し悩んだこともありましたが、この一言にハッとさせられました。学び続けることは人生の一部なんだと今では思っています。自分の未来をより良く生きていくためにも、勉強はし続けるべきです。楽しく学べることが見つかればなお良いという意見をいただきました。以上です。ありがとうございます。

・「人に勝つより自分に勝ちなさい」日本の柔道家、教育者である嘉納治五郎氏の言葉です。ひとは色々な誘惑に負けるかもしれません。欲望に勝つには敵に勝つより難しいと考えます。だからこそ、それを乗り越えた時、自身の成長があると思います。嘉納治五郎氏の人生と業績を見ると、このひとこそ、自分に勝った人だと思わざるを得ない。そして、松下幸之助を調べて、意外なことが見つけました。休日を週二日にしてくれたのは松下幸之助でした。週休二日制は、1965年に松下幸之助の号令のもと、松下電器産業(現パナソニック)が始めたそうで、他の企業が導入しはじめたのはそれから15年も後の1980年ごろなのだそうです。官公庁に導入されたのはさらに12年遅れの1992年、そして公立小中学校及び高等学校の多くでは、2002年に毎週土日が休みになりました。

・本日のテーマは修養と構想です。修養とは一生をかけて、人格を磨いて行くことです。授業に出場してきた人物野口英世は1歳の時に囲炉裏に転落し、左手に大やけどを負います。障害のために農作業が上手く出来なかったことから、母に学問で身を立てるように論されました。母親の導きや本人の努力もあり、優秀な細菌学者になりました。もう一人は安岡正篤です。安岡正篤の言葉は「どんな忙人にでも、寸陰というものはある」。寸陰を惜しむということです。わずかの時間を大切にすることは大事だと思います。中国の名人魯迅は「時間はスポンジの水の様で、握ってみればあるものだ」とおっしゃいました。電車での通勤時間や寝る前の時間をちゃんと利用して、日経のニュースを読んだり、単語を暗記したり、小さいことを毎日やったら大きな成功になります。一日のスケジュールを完璧に立てることを訓練します。本日はありがとうございました。

・今日の講義はまた 日本の偉人について勉強しました。一番印象的になっている人は野口英世です。貧しい家族に生まれて、小さい時は左手に怪我がありました。そして、学校に友達がいじめられましたので、学校を辞めたい清作は今まで日本ではなく、世界の偉人になっていたと思います。医学に色々な必要な研究を発見しました。また、野口英世のお母さんも偉人のお母さんだと思います。貧しい農家だけど、子育ては本当に素晴らしいでした。何でも、野口英世は教育を受けてもらって、必ず偉い人になって期待されました。野口英世のお母さんは野口さんに手で書いた手紙を見たことがあります。字が誤ったことが多かったが、野口のお母さんの心が大変理解できます。偉いなお母さん に尊敬すると思います。

・第6回修養と構想力の志を習いました。修養とは人が自身の心身と道徳を積極的に鍛錬していた後の良好な沈殿する精神狀态であると思う。構想力とは1 物事を体系的に考え、まとめあげる能力。2 ⇒想像力である。初めて、先生から修養と構想力の講義資料を頂きました時はこの二つ分野の関係がすぐなかったと思いましたが、今日の授業を受けたら深刻な改観しました,_立派な教養がない人は、高いプラットフォームの視点持たない、所謂構想力もう産まれないと考えた。今夜,日本の近現代史上載せた、高い構想カを持って、日本の政治,經濟,文化,社會及び世界で人類發展に貢献した大人物逹の志、物事を習って、大人物が巨大な社会貢献を与えたのは、彼らと積極的に社会を変えることに力を尽くして、衆生に貢献することを目指しているのは、このよう根本的な禅宗は善良である。野口英世先生が「頼リにならない父だけど、母の苦劳に報いたい」の感恩の念𢥧を持って世界のおくの人命を救うことだった。私が気になってるの名言は德川光圀の「誕生日は、最も粗末な食事でもいい。この日こそ、母を最も苦しめた日なのだから」である、これこそう中国で「百善孝为先」ことわざの表すである。彼は水戶德川家を继ぐだか、中国の「伯夷伝」にならい次代は兄の子に继承させ、兄の深い悲しみに答えた。この言葉も、情に厚い光圀の真骨頂を示している。深い文化教養を持っているからこそ、水圀は、「大日本史」を編纂の偉大な構想をつくる力がある。だから、運命を変える大人物になる前に、鍛えられた修養がなくても、構想力が出ないと、何も変えず、運命を変えて、世界を救うのか、それとも自分自身からして、知識をかけて、修為を錘鍊して、そのあと衆生を渡せると思う。

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午前:学部授業「飛翔する構想力」。以下、客員の久米先生のレポート。

多摩大学 久恒啓一「立志人物伝」181230 事業構想 後藤新平「人を残して死ぬのは上」】
今日のテーマは事業構想。その象徴として後藤新平が取り上げられました。元ボーイスカウトで、現本所消防懇話会長の私が考えるのは、いま後藤新平が生きていて東京都知事だったら何をするか?です。オリンピックに使うお金で、どんな教育をしただろうか?震災後を展望して、どんな大東京復興計画を創っただろうか?
おそらくは、AI・ロボット・IOTなど駆使して、都庁の職員も、都内を走るクルマ(渋滞と排ガス)も1/10にするでしょう。そこで得られた資金で、世界から人財産を抜擢して、教育とベンチャーNPO振興に投資、世界で一番学びたい、起業したい、住みたい安心安全な街にすることでしょう。
■1 復興の祖 後藤新平
後藤新平「カネを残すのは下、事業を残すのは中、人を残すのは上」
https://note.mu/hisatune/n/nb71fd67b8358
後藤新平、先が見えすぎた自分を称して曰く「遠眼鏡、一人で持てば、罪作り」
後藤新平ボーイスカウトの総裁として曰く「人のお世話にならぬよう。人のお世話をするよう。そして報いを求めぬよう(自治三結)」
ビスマルク曰く「一も金、二も金、三も金」
後藤新平曰く「一も人、ニも人、三も人」
新渡戸稲造曰く「児玉は10分、後藤は20分、自分は2時間」(理解と仕事が速い)
→台湾統治
(総合プラン=行政改革しつつ上下水道、道路、医学部など新設 抜擢人事 =新渡戸稲造など)
→南満洲鉄道総裁
(ヨーロッパと結ぶ構想。俊才を抜擢し世界基準の線路幅、駅舎、ローマ字名)
→帝都復興院→東京市長
(都市のグランドデザイン=消失面積を超える再開発。国家予算の半分を使って道路と公園を立派に。昭和通り、環状一号から八号、隅田川を川の博物館に)
▼石原元都知事の弁
後藤新平のような政治家が必要。90年を経て平成25年中央環状線がようやく完成
▼猪瀬元都知事の弁
内務省など既得権力者の抵抗を超えるため、川の上はフリーなので隅田川の橋から着手。
奥州市 後藤新平記念館長の弁
困難にあえばあうほど力。どんなことがあってもめげない
■2 宮城大学の事業構想を図解
多摩大学初代学長 野田一夫さんから宮城大学の事業構想を図解せよと言われて作った図(写真を参照のこと)事業アイディアと計画をつなぐ構想力の欠如が日本の問題。構想力は図解力でもある>ビジネスコミュニケーション1「図解」を受講しよう。
■3 徳川光圀の250年越しの事業構想。
徳川光圀「誕生日は、最も粗末な食事でいい。この日こそ、母を最も苦しめた日だから」
18歳の時に「史記」を読んで、歴史書を創ろうと決意、没後15年で列伝が完成、維新後、明治39年に250年かけてようやく完成。
https://note.mu/hisatune/n/nf8ed19489a6f
■4 その他 事業構想の達人の言葉
柔道を発明した嘉納治五郎
「人に勝より、自分に勝ちなさい」
https://note.mu/hisatune/n/ne4238f6ecf96
パナソニック創業者 松下幸之助
「第一の経営哲学、経営理念が確立できれば、まず五十点で半分成功したのと一緒」
https://note.mu/hisatune/n/n933e3bf44350
世界的な版画家 棟方志功
「わだばゴッホになる」
https://note.mu/hisatune/n/n58af39bf2d4a
■5 リレー講座:真壁昭夫先生「世界経済と金融市場の動向」
日本:2012年11月の底以来景気上昇中、円安で輸出企業が潤った、為替差益が大きかった。2019年はドル安で円高になるだろう。海外頼みの国内経済だ。人口減でも成長はできる。その核は...
http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2018/11/29/000000

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14時:大学戦略会議:テーマは「地域」。

15時半:大学運営会議

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「名言との対話」。11月30日。呉清源「勝っても負けても、最善の一手を尽くせば、それで立派な一局なのです」

 呉 清源(ご せいげん、1914年6月12日 - 2014年11月30日[2] )は、囲碁棋士中国福建省出身。

1928年、14歳で来日、故瀬越憲作名誉九段に入門。1936年4月帰化。1979年中国籍より再び日本に帰化。戦前、戦後を通じて「打ち込み十番勝負」で一流棋士をことごとく破り、昭和囲碁界最強の打ち手といわれ、「呉清源時代」を築く。抜群の戦績と華やかな芸風で常に斯界一の実力者として遇せられた。1967年に木谷實五段(当時)と新布石法を発表。門下に林海峰名誉天元がいる。20世紀に囲碁界をリードしたのは日本で、ずっと世界最強国だった。その中心に呉清源がいた。台湾から「大国手」の称号を贈られている。

囲碁は勝負事ではない、と呉清源は語っている。 中の精神を実践しているという考えだった。陰でもない、陽でもない、中を大切にする陰徳思想だ。無形の「中」が形となると「和」になり、無形の「道」も形になると「徳」になる。調和を意識した中国古典の一つの理想である。中の精神とは、陰陽の釣り合いがとれた、最善を尊ぶ精神である。囲碁のルールは、日中で違う。日本では囲った地の数を競うが、中国では生きた石の数で競うから、勝負事というより、生存権の主張のようで、それが呉清源の碁の基盤にある。

呉清源は「二十一世の碁」を目指ていた。東西南北の四方と上下の天地のある碁盤全体を見ながらバランスを上手に保ち、広い視点で打つことを目指した碁である。呉清源によれば、碁盤は縦横19路あり、天元を中心に361の交点がある。これを用いて、方角、四季を表し、吉凶を占う道具でもあった。碁盤は宇宙である。白と黒のすべての石の働きを引き出す一手が最善であり、勝ち負けより、相手も含め調和のとれた全体像を目指す共存の思想だ。その調和を目指す打ち方が二十一世紀の碁である。勝とうとするのではなく、一緒に調和ある世界を創っていこうとする態度だったのだ。何をやるにも、思想や哲学が大事だということを教えてくれる。

 私自身は碁は打たないが、碁の世界観には関心がある。図解でも、自分自身を天元に置くことを基本にしている。まさに世界、宇宙を描く作業でもあると考えているので、こういった碁の思想には親しみを感じる。ひとつ、これを機会に碁を学んでみようか。

 

中の精神

中の精神