大学の授業は「日本への回帰」。「京王ビズプラザ」でミーティング。

f:id:k-hisatune:20181208051242j:image

授業:「日本への回帰」。司馬遼太郎梅棹忠夫

ーー

12時半:ラウンジ。

杉田先生、趙先生。樋口先生が加わる

13時:事務局とのミーティング

ーー

高橋さん来訪

岩沢さんと相談

ーーーーーーーー

多摩センターの京王プラザホテル

・「京王ビズプラザ」で。ミーティング

・コーヒーラウンジでミーティング

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」12月7日。市川健夫「私は「文字になっていないことを発見する」ことに一番興味があります。だから一貫して徹底したフィールドワークを行っていたのです」

市川 健夫(いちかわ たけお、1927年9月5日 - 2016年12月7日)は、日本人文地理学者。

 東京高等師範学校を卒業後、故郷の長野県で中学校教諭を経て高等学校教諭をつとめる。「八百長なし」という条件で県政100年史の編纂責任者として5年。東京学芸大学助教授、教授。信州短期大学学長時代は「学際・国際・民際の三際主義」を方針とする。長野県文化財保護審議会会長22年、うち10年は会長。「常民共栄」の方針で長野県立歴史館初代館長を12年つとめる。

「日本のブナ帯文化」の研究により第9回風土研究賞。第5回NHK地方放送文化賞。2010年春の叙勲では、教育研究・文化財保護功労で瑞宝小綬章小布施町名誉町民。

『週刊長野』に連載された「私のあゆみ」を興味深く読んだ。

地理学にのめりこんだ結果、高校教師として16年間同じ高校に勤務する。毎週土曜日の午後から調査対象を高冷地農業に絞ったフィールドワーク。菅平、川上村、開田高原、富士山麓などの高原地帯をコツコツと歩き、10年がかりの調査をまとめ論文で博士号を受ける。

 

1987年に発行した市川の『ブナ帯と日本人』という本が話題になった中尾佐助らによる「照葉樹林文化論」は西日本中心の生活様式で日本文化を論じた。一方、市川はクスノキ、シイ、カシ、ツバキなどの常緑広葉樹が茂る中央高地・北陸の山地から東北、北海道に広がる東日本は、水の涵養力、保水力があるブナなどの落葉広葉樹の土地であり、この視点からも日本を考えるべきであるとした。このブナ林帯では、縄文時代以来、米の代わりにヒエ、アワ、キビ、ソバなどの雑穀を栽培し、ダイコン、カブを植えた。また、馬を主体とする畜産の技術もあった。照葉樹林文化を基盤とする大和政権に飲み込まれるまで、まったく異なる文化が花開いていた。その一つが青森県三内丸山遺跡である。

 自然と人の関係を見ていくと、研究テーマは無限である。信州の特徴、地域性を対象にする学問に市川は「信州学」名付けた。 ネーミングが得意だと自分で語っている。「日本のチロル」、「日曜画家の村」、「縄文食のムラ」、対馬海流につけた「青潮」という愛称、そして「食の文化財」の提案など。丹念なフィールドワークによって、地域の特性にぴったりの言葉が浮かぶのだそうだ。

フィールドワークで得た資料をまとめる執筆も旺盛だった。一時は、年間で原稿用紙3000枚を手書きで書いていた。「現地調査の大切さというのは、無意識に自分たちの文化の中で暮らしている人々を、ある一定の知識をもって見て分析することです。歩いて発見したことが、それまでの発見とつながると新たな理論を生むことができます。その理論を、さらに歩いて検証していきます」。小学校時代には「野外巡検」という郷土教育と出会い、地理学に進む。この野外巡検がフィールドワークの始まりだったのである。

希代のフィールドワーカー・市川健夫は、文字になっていない事実を発見し、それを文字にすることに生涯をかけた。徹底したフィールドワークに裏打ちされた理論は強い、市川健夫の生き方、行き方はそのことを教えてくれる。