小中高の同級生たちとの交流の日。

昼頃、同級生で市議会議員の須賀留美子さんのフェアトレード「大地」を訪問し1時間ほど歓談。IT。ふる里納税。、、、。

 ーーーー

夜は、同級生との飲み会。12人。女性は2人で、賀来さんと井上ともちゃん。

一次会12人、二次会はスナックで10人、三次会は「兆」で3人。

帰宅は午前一時。

ーーー 

「名言との対話」12月26日。白井義男「人生にはピンチばかり多くて、チャンスは極めて少ないものだ」

白井 義男(しらい よしお、1923年11月23日 - 2003年12月26日)は、日本プロボクサー。世界フライ級王者で、前人未踏の4度の防衛を果たす。最終戦績は58戦48勝(20KO)8敗2分。世界戦戦績は7戦5勝2敗。

焼け野原となった戦後の日本人を励ましたのは、ノーベル賞湯川秀樹、水泳の古橋広之進、そしてボクシングの白井義男の3人だった。

また、1988年、文藝春秋編集部が刊行した『「文藝春秋」にみるスポーツ昭和史』全三巻のあとがきに於いて “昭和のスーパー・スポーツマン十人” に白井義男は、織田幹雄人見絹枝双葉山川上哲治古橋廣之進岡本綾子力道山長嶋茂雄植村直己とともに選ばれている。

戦時中はボクシング界も「敵性英語禁止通達」で混乱した。KOは「打倒」。ストレートは「直打」。フックは「かぎ打ち」。アッパー「突き上げ」。グロッキー「昏迷状態」。ゴング「時鐘」。、、、。

戦後、「オレにはボクシングがある」と生きる目標を持つことができた。

白井は「人間の一生は、出逢いによって定められていくものだ」と後に述懐している。ボクシングのコーチでもあり、「人生の師」でもあった進駐軍のカーン博士は「一度欠点を指摘すると、二度と同じ間違いを繰り返さぬことである。、、教えたことは必ず実行し、しっかりと修得するまでは倦まずたゆまず練習してくれた」と弟子を語った。そして「敗戦で自信と希望を失った日本のために戦うのだ」と白井を励ました。「非情こそが、リングの友情なのである」と、次々と難敵を倒していく。

引退後はテレビの実況中中継で、評論家の郡司信夫と一緒にコンビを組んでいた。この映像はよく覚えている。

白井はハングリーさがなくとも、「気構え、工夫、信頼できるコーチ」で、チャンピオンは生まれるという考えだった。座右の銘は「人生は勝負」であった。勝つためには、無鉄砲なファイティングではなく、相手のパンチを避け、打たれないように動き、そして少ないチャンスで相手を撃ちぬいていく、というボクシングスタイルを身に付けた。「打たせないで打つところに、やっぱり妙技がある」という白井義男は、ボクシングで学んだと同じスタイルで生き抜いていったのだ。

 

ザ・チャンピオン (この道シリーズ)

ザ・チャンピオン (この道シリーズ)