大学院「立志人物論」のフィールドワークは「漱石山房記念館」見学。このメンバーでの人物記念館訪問を続けることになった。

参加院生は13名。地下鉄早稲田駅から徒歩10分。新宿区立漱石山房記念館。

夏目漱石像と記念撮影。

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以下、日本人院生の感想から。

最終講義ありがとうございました。本日の漱石山房記念館楽しく見学させていただきました。漱石の人生とその作品またかかわった明治の作家たちの関係が特に興味を引きました。漱石の小説で書かれているフレーズがありましたが、特に掴みの部分がうまく、自然に吸い込まれていきます。"吾輩は猫である、名前はまだない、どこで生れたかとんと見当がつかぬ。”とか”おやゆずりの無鉄砲むてっぽうで小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰こしを抜ぬかした事がある。なぜそんな無闇むやみをしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。”とかついつい引き込まれていくフレーズが秀逸である。本日発見して気に入ったフレーズは虞美人草の"真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。 ... やっつけなくっちゃいこうしゃられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。"これは静かであるが真剣勝負をいつもやっているという熱い想いを持つことの大切さが伝わってきた。一方漱石の創作活動がたった11年しかなかったことには驚いた。短い期間でたくさんの作品を仕上げたその創作力にはすごいものがある。また弟子たちにも恵まれて没後も漱石をほめたたえることで伝説化していったのであろう。明治時代の文学には活き活きとした躍動感とロマンを感じる。記念館を訪問すると作家の人生とその時代の作品の関係が良く分かるので3次元的に理解できて楽しい。時代によって作品の傾向が変わってきたり世相を反映したり、作家の別の側面が理解できる。講座終了後も記念館の訪問や皆さんとの交流を続けたいと思いますので引き続きよろしくお願いします。

・本日、立志人物論の第8講、最後の講義として 漱石山房を訪問させて頂きました。新宿、早稲田界隈の閑静な住宅街の中にあり、瀟洒な佇まいの建物でなんとなく趣きのある記念館でした。夏目漱石といえば日本人では誰でも知っている有名な明治の文豪ですが、遅咲きの作家で教師を辞めたあと、38歳でデビューして、実質の作家活動は 約9年間と短いのですが、心に残る作品を残しています。高浜虚子と俳壇、歌壇での親交の後に、正岡子規のすすめで、「我輩は猫である 」を明治38年に発表してその名声を博しました。短い期間に作家としての創作活動に尽力するとともに、弟子の育成にも務めていました 。漱石の門下生は、木曜会を発足させ、漱石山脈を幅広く作っています。自身は、側転居士と称して漱石山房の館で後人の育成に力を尽くしています。芥川龍之介など、多くの有名作家を輩出しています。また、弟子にも数々の教えを残しています。比喩的には難しい言葉ですが、「牛のように図々しく進む」という言葉は泥臭いですが、的をえているような気がします。人としての教訓を授けています。娘婿だった松岡譲(義理の息子)が、漱石の書籍の管理をしていたようですが、戦争の影響でそのほとんどを消失してしまったようです。弟子の小宮豊隆東北大学漱石の書籍を退避させ、貴重な資料が残されていることは、大変有意義なことです。夏目漱石、その生涯で、創作活動11年を通じて、未だに読み続けられている名作、「坊ちゃん」は私の心の中で正義感の強い教師が思い起こされます。夏目漱石、生誕150年を迎えて未だに幅広いファンを持つ、偉大さに感激させされます。そして、49歳の若さで病死してしまいますが、なんとも残念なことです。繰り返しになりますが、弟子への教えとして、「牛は超然として押して行くのです。人を押すのです。けっして文士を押すのではない。」心に響くいい教えです。愚直に日々努力することを説いています。そして、多くの弟子たちが、夏目漱石を支えています。今回が、最終講義となってしまいましたが、「立志人物論」の講義は大変楽しく、歴史上の人物、偉人を再発見させてもらえたことは、私自身にとって大変有意義なものでした。

・フィールドワークの所感をアップします。今日は早稲田の夏目漱石の記念館、漱石山房を訪問しました。漱石山房は2年程前にできた新しい記念館です。元々漱石が住んでいた場所ですが、戦争で焼失しその後は都営住宅になっていたため、記念館を作ることができず都営住宅の周囲のわずかな場所を漱石公園としていたそうです。都営住宅の老朽化建替えと漱石生誕120年のタイミングが重なり、2017年に新宿区が満を持して記念館にしました。新宿区としては相当の力の入れようで、当時の漱石山房内の書斎を精緻に再現し、cafeと図書館まで併設されていました。施設に入ると料金を支払う手前にカフェスペースがあり、無料でVTRと展示の一部を見ることができる作りになっている点も工夫されているなと思いました。早稲田と神楽坂の中間にある立地と相まって、館内に入らずとも楽しめ、一度行った人でも近くに立ち寄ったら休憩がてら度々訪れたくなる場所になっています。800館を超す記念館を訪問した久恒先生によれば、記念館として最上位レベルの施設とのことでした。今回は、ボランティアスタッフと思われるガイドの方(男性・おそらく60代)が文章で書いてある以上に詳しい話をご紹介くださいましたので、それも素晴らしかったです。続いて内容に関する所感です。夏目漱石といえば日本人で知らぬ人はいない超有名人ですが、恥ずかしながら教科書で読む以外ではほとんど調べたことがなかったので、今回の機会に記念館内をかなり細かくみてきました。漱石は1867年大政奉還の年に生まれ、1916年に49歳で亡くなっています。作家として有名ですが、作家として活動したのは38歳からの11年だけで、38歳までは教育の世界にいました。教育者としての経験があるからか、作家として活動する中でも、漱石を慕う弟子が多くいて、弟子たちが非常に活躍したことがいまの漱石の名声に繋がっているという面もあるようです。弟子たちとは毎週木曜日の午後に集まる木曜会という場をもっていました。その木曜会を開いていたのが漱石山房です。
記念館のメイン展示のメインが入ってすぐ1階にあり、漱石の書斎とその隣の木曜会を行っていた部屋も再現されています。漱石の書斎にある家具や蔵書も再現されていました。文章を書いていたデスクは非常に小ぶりで高さも低く驚きました。漱石は身長が158㎝だったそうです。デスクの小ささのわりに部屋のサイズは比較的大きい印象がありました。板張りの床にかなり高い天井のモダンなスタイルの部屋でした。(注 天井の高さも再現していあるのだと思いますが明確に確認したわけではありません。)部屋の中だけでなく窓やベランダ、屋根まで再現されていて100年前に生きた明治の知識人の暮らしが浮かび上がってくるような空間でした。2階には漱石の残した作品の言葉を抜粋した展示、作品群を時代ごとに分けて紹介した展示、そして縁のある人々に関する展示があります。作品の言葉の展示から私は以下の3つを抜粋しました。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」(草枕)「百年待っていて下さい」「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」(夢十夜)「自分に誠実でないものは 決して他人に誠実であり得ない」(行人)どの言葉からも、いつまでも色あせない、日本語の美しさを感じます。人間関係では、師・友/ライバル・後輩・家族を知りたいと思い見てみました。
展示では友や後輩が多く、正岡子規尾崎紅葉芥川龍之介寺田寅彦魯迅など数多くの著名人の名前が挙がっていました。正岡子規とは第一高等中学で出会った同窓だったとのこと。歴史に名を刻む著名人が若いときに出会うという話はこの二人に限らず多いので、お互い刺激しあい高めあう関係の友/ライバルというものが如何に価値あるものかということがよくわかります。師として、ロシアの哲学者であり音楽家だったケーベルの名前が挙がっていました。幼少期は夏目家から養子に出されるなど苦労の多い家族関係があったようですが、1895年に愛媛の中学に赴任したころに結婚したのちは、妻鏡子との間に二男五女の子をもうけて幸せな家族を築いたようです。かの有名な「吾輩は猫である」の猫(福猫)をはじめ、猫・犬・鳥など生き物も多く飼う家族だったということ、人が多く訪ねてくるということと合わせて、温かく賑やかな家庭だったのだろうと想像しました。二時半から四時ころまでたっぷり見学して、最期は併設されたカフェで空也最中セット(ほうじ茶)を頂き、一〇〇年の時を超える穏かな金曜日の午後のひと時を過ごさせて頂きました。終了後の懇親会では、先生と日本人5名(おじさん)留学生5名(おじょうさん)合計11名が参加し、漱石の話を交えつつ、異文化交流を大いに満喫させて頂きました。ご一緒させていただいたみなさま、楽しいひと時を共にできたことに感謝いたします。ありがとうございました。最後に、授業を講義頂いた久恒先生と同授業を共に参加した諸兄にお礼を申し上げます。

・最終講義ありがとうございました。懇親会は途中退出で申し訳ありませんでしたが、またいつの機会か、ご一緒できればと思います。それでは、所感に移ります。今回訪れた漱石山房記念館ですが、外観も新しく、早稲田駅から住宅地を歩く中、突如現れるその雰囲気が素敵でした。夏目漱石の生立ちやその作品、また交流のあった方々との手紙まで展示され、これで入館料300円はかなりのお得感がありました。個人的にまた訪れたいです。展示には、漱石の作品の中から名言を取り上げたものがあり、その中で印象に残った名言を紹介させて頂きます。「知に働けば角が立つ。情に棹れば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」・・・‘草枕’より「人間は好き嫌で働くものだ。論法で働くものじゃない」・・・‘ぼっちゃん’より「自分に誠実でないものは決して他人に誠実であり得ない」・・・‘行人’より。明治〜大正に書かれた作品とは言え、ひとつひとつのフレーズが小説の中だけではなく、実社会でも通じ、また、現代のマネジメントにも通用する言葉だと改めて感じました。先生から、漱石の凄さは文豪としてだけではなく、多くの弟子を持ち、その多くが大成したことにあると伺い、こういった名言から多くの弟子たちが学び、成長したことが伺えます。秋学期全8回の講義を通じ、各種テーマで偉人たちの人生を振り返り、毎回学びの多い講義となりました。また、留学生も多く、ディスカッションを通じて、海外から見た日本の偉人や日本人として偉人について説明する際、普段とは違う視点で物事を考えることができ、とても有意義な場とのりました。ありがとうございました。記念館探訪は継続して参ります!

・今回の講義はフィールドワークで漱石山房記念館へ。20年程前、漱石山房の最寄り大学・
日本文学科に所属していながらも、漱石山房記念館の存在すら知りませんでした。心から反省します。※ちなみに、卒論は宮沢賢治で書きました。1階には漱石の書斎が再現されており、どのような環境で数々の名作が執筆されていたのかがわかるようになっていました。学生時代に「こころ」が好きで何度も読み返し、先生はどのような心理であったのか、先生の告白をきいた学生はどのような心理であったのか、その真意がわからず悶々としていたあの日々が思い出されました。その「こころ」がここで書かれていたのかと思うと感慨深いものがあります。しかし、夏目漱石が作家として活動していたのがわずか11年、その11年という時間であれだけの名作を生みだしていた、ということも
今回初めて知りました。世の中に「たら・れば」はありませんが、夏目漱石がもう少し長く生きることができていたならば、どれほどの作品が生みだされたのであろうかと、思わずにはいられません。夏目漱石自身がすごい才能であったのはもちろんですが、正岡子規高浜虚子といった才能と出会い、木曜会の場で次代の若者たちを育てた、というところにも夏目漱石の偉大さを感じます。自分自身が存命中に活躍することよりも、その人が亡くなった後に何を残すことができるか、それこそがその人の偉大さのあらわれであるのだと考えます。そして、今回一番心に響いたのは「則天去私」。天に則り私を去る。夏目漱石が晩年に文学・人生の理想とした境地。修善寺の大患を経て、死を身近に意識してたどり着いた境地。人生とは何か・死とは何か、をつき詰めて考え、己の人間としてのあり方を言葉にしたものであると考えます。ひるがえって自分はどうであろうか。煩悩だらけ、自己満足を最優先して過ごす日々。夏目漱石は享年49。私は今40歳。それほど年齢は変わらないのにこの大きな差は一体何であろうか。まだまだ自分は修行が足りないと実感。そのことがわかったということだけでも、今回の漱石山房訪問は価値がありました。久恒先生、そして天のお導きに感謝します。立志人物伝の講義は今回で終了。有意義なことを、楽しく学ばせていただきました。このタイミングで立志人物伝を受講したのは運命であり、人生でおこることの1つ1つに意義があるというのを、改めて教えていただきました。そして、無趣味な私でしたが、人物記念館めぐりという趣味を得ることが
できました。今後も人物記念館めぐりを継続、まずは神奈川県内の人物記念館制覇を目指します。久恒先生、共に学んでくださった皆様、ありがとうございました。今後もこのグループを継続していくという話は大変うれしいことです。今後ともよろしくお願い申し上げます。

ねこ塚。

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以下、留学生の感想から。

・今日の第八回立志人物論は、field の授業形式で、先生は皆さんを夏目朔石大文豪の記念館朔石山房に連れて見学していきました。溯石山房とは作家、教育家、画家と身に付く大文豪夏目朔石先生の晚年の住所であり、生まれた朔石坂の遠くない街であり、「三四郎」「こ、ろ」「道草」など名作を世に送り出し、、門下生たちがあつう「木曜会」と言う文学サ口冫である。丸内線早稲田口徒歩10分ほどの道のり.である。初めてfieldworkの授业形式偉人記念館へ見学して行って、先生から指導されて、個人より皆さんと一緒にgroupで深い学習指導の意味を持っている。半日の見学活動をかけて、夏目漱石先生新たな発見いただきまして、彼の生き方を感動された。、名作中の名言や格言に触れ、感銘を受けた経験になった。漱石山房の一階の展示区では、夏目先生が生前読んでいた、膨大な数量の本をもっと展示されています。私が深く感じさせてくれたのは、大人物になると必ずつつましい知識の汲み取りで育ったの必要である生涯展示区,夏目先生生まれたから、最後までの「生きたち」「出会い」「出来事」「性格」「関心 」r能力」など6つ偉で夏目漱石先生49年の人生がを略介されて頂いまして、夏目先生がたい好きの動、植物の紹介していただきまして、漱石山房今のデザインが猫文化を含まれだ理由を承知しまった。それは夏目先生の「世の中に好きな人段ケなくなります、そして、天と地、草と木の美しく見えできます、事にこのの頃の春の光には花は大好きのです。私はそれを頼りに生きています」という名言は夏目漱石の生活態度を表しだと思う。二階の階段の入り口で、この山房に大きな貢献をした人の名前記念碑がそびえ立っている、surprise になるのは久恆啓一先生の名前を見つけた、さすが久恆啓一先生は漱石のfan だ。「吾輩は猫である。まだ名前はない。」という、最も有名な冒頭を記した大正時代に活躍した日本の文豪であり、日本人には親しみのある文豪の夏目漱石さんと出会いの偉人達のvalueに驚いている,私がきになるのは中国で一番有名の文学家,思想家,作家など身に付く鲁迅と言う大名だ、小学時代の私は鲁迅は日本へ医学専門の留学ただが、医者の身分を通して世の中の人の体を治すpower より全民の脳中の思想を治すことの価値があると考えまして、中国へ戻って国民の思想意識を呼び起こす覚悟を生み出した作品を大量生み出した。今日の見学を通じて、魯迅先生も夏目先生の忠実なファンであり、その時代の背景の下で夏目先生の影響を受けて自分の人生の軌跡を変え、手術刀を置いて代わりにpenを持って、当時の中国国民に大きな意味の影響を与えたと承知した。だから夏目漱石先生の短い49年の人生はどのくらい人に影響したかというと、どのくらいの時事が先生の影響で変わったな、それこそ夏目漱石のreally power だと考えました。見学活動を終ると本学期の久恆啓一先生の立志人物論講座を終了されましたが皆さんと一緒に勉強した時間本当に楽しかった、日本の歴史をあまり触れなかった、最初に志の意味全然わからない私なりの人は、この講座通じて、生きているpower を見つけた、lucky より幸福の感じを身につけた、背中隠している翅を生まれた、立志人物論講座で大人物達の志を習いまして、いつでも善いの目的を持って、遠大な目標を決めて、勇気を出して、止めない行動して、折れない心を温めて、check-selfの自覚性を忘れず 、未来は私の人生を飛べると信じになる。久恆啓一先生,日本人先輩方方、留学生の皆様皆さんと一緒出会ってくれて心から感謝しておりますます、16:30から、20:00まで続いた懇親会、皆様お互いに交流をして勉強して、、師匠との隔たリの緊張感がなくて、所々として話して、とても楽しかった。終了しでも皆様と一緒なかった時間を脳中で浮きまして、行きなり悲しい感じを湧いました、本学期の立志人物論で素晴らしい皆様真面目で勉強してる精神を感動されて、柏谷先輩ような真面目精神を尊敬してる、留学生の私は増す増す日本を好きになって、これから、記念館へ訪問することを通して旅行の計画したいと考えたが、このgroup は一番良い交流社区だと思うが解散されしたくないが、先生と皆様に解散しない意見を提出して、皆様から一致同意されてありがとうございます。酒向先輩今日の懇親会誘ってくれてありがとうこざいます、まだ次回皆様と一緒に偉人記念館のfieldworkを楽しみしてる。

・本日の夏目漱石記念館の見学は楽しかった。山房の書斎再現展示はかなりリアルです。10畳のスペースには付箋のある書籍がぎっしり積まれました。また、「移竹楽清陰」の自書が掲げられて、「竹を移植して清らかな陰を楽しむ」と説明いただきました。再現した書斎を見ると、夏目漱石宅で、漱石の教え子や漱石を慕う若手文学者が集まって、さまざまな議論をした木曜会も生々しいです。さらに彼の名言を読んで、原稿を見って、夏目漱石をもっと深くわかるようになりました。この講義を通して、様々な偉人のことを知り始めました。留学生として、特に日本で働くつもりの人にとって、非常に役にたちました。さらに、彼らの思想を学ぶ上で、新しい自分を作ろうにしました。日本人のクラスメートがいつも丁寧にわからないことを説明してくれて、本当にありがとうございました。孫さんが言うように、このグループは永遠に解散しないように。ありがとうございました。

最終回授業で記念館に見学を行ったありがとうございます。今日、風邪をひいたため、懇親会は欠席で申し訳ございませんでした。今回は漱石山房記念館に第2回目で訪れました。
前回より、いろんな細かい所を新たな発見を頂いました。例え;夏目漱石の「木曜会」をおける生徒又は友人との繋がり。記念館後ろ公園では「我輩猫である」主人公猫の墓を設置しました。更に、一番喜ぶ発見は記念館施設整備基金 寄付者御方名リストには、先生の名前を見つけました。夏目山房記念館の見学は本当に良いイベントと思いました。秋学期全8回の講義を通じ、各種テーマで偉人たちの人生を振り返り、毎回学びの多い講義となりました。毎回には、日本人先輩たちいつも優しくて留学生たちに解明をしたり、ディスカッションを行ったり、日本の歴史または偉人について認識をもっと広くて、深くて勉強になりました。本当に心から感謝しました。

今回は夏目漱石の記念館を見学しました。夏目漱石は中国でも非常に有名な人でした。そして、記念館は公園と一緒になって、コーヒーショップもあり、外観見るとオシャレも感じました。授業中も夏目漱石の作品を紹介しましたが、今回は夏目漱石が晩年を過ごした旧居に訪ねって、書斎も再現されたことに感動ました。先生は記念館の設備整備基金寄付者に名前を載せたことが凄いと思います。将来自分もこのようなことを目指してします。日本の歴史文化あまり知っていません私は、この学期8回の講義を通して、沢山の偉い人の事績と思想を勉強になりました。毎回に日本の方とディスカッションして、いろんな立場から、講義の内容を理解できます。しかし、8回の講義はまだ足りないと思います。これからも日本の歴史について続けて勉強します。

・第8回は夏目漱石記念館に行っていだだいて、大変勉強になっていると思います。夏目漱石の生涯を詳しく分かるようになってきました。夏目漱石の名言は沢山見つけました。「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より頭の中の方が広いでしょう。」「世の中にすきなの人は段々なくなります。そして天と地と草と木が美しく見えてきます。ことにこの頃春の光ははなはだ好いのです。私はそれをたよりに生きています。」「記録して下さい。私はこいな風にして生きて来たのです。」「自分がそれだけの個性を尊重し得るように、会社から許されるならば、他人に対してもその個性を認めて、彼らの傾向を尊重するのが理の当然になって来るでしょう。」上記の名言は大体 大正、明治時代に書いていました。また、素晴らしいことは記念館施設整備基金寄付者リストには先生の名前を見つけました。最後の講義は日本人の偉人の夏目漱石記念館に見学に行ったり、先生と皆さんと一緒に懇親会に参加したりするので、自分の知識が広くて、大変嬉しかったと思います。心から本当に感謝したいと思います。先生 ありがとうございました。皆さん お疲れ様でした。これからもよろしくお願い致します。

最終講義ありがとうございました。高校時は教科書の中で魯迅から夏目漱石のことを知りましたが、今回ようやく夏目漱石の記念館を行きました。西早稲田駅から降りた後、5分ほど歩いて、すぐに漱石山房記念館を見えました。この間の道も漱石吾輩は猫である>中の猫の飾りがあり。記念館の外観は現代的な建物だと思いますが、300円のチケットを買って、中に入ると「漱石山房」の一部、書斎・客間・ベランダ式回廊を再現するミニチュアが見えます。ここで漱石を創作時の場面と若手文学者が集まりの「木曜日」の場面も完璧に再現していました。中は外観と全然違うデザインで、昔の日本の部屋と現代的なものを併せて、とっても素晴らしいと思いました。案内係の者から聞くと、この山房作るも結構悩んでいました。山房の広さについて、漱石の息子と「木曜日」の文学者の意見が違っていたからです。幸い、安井曾太郎の「麓の町」の絵で当時部屋の広さ、大きさを推測出来ました。壁の書道「移竹楽清閻陰」(竹を移植して清らかな陰を楽しむ)の自書が掲げられて。書斎を出で前に進むと記念館施設整備基金寄付者御方名の看板があります。そこで先生の名が見つかりました。2階を進むと「吾輩は猫である」の草稿、「坊ちゃん」冒頭の草稿、「文鳥」、「夢十夜」も見えます。ここで最も目を引いたのは、部屋着としていた長襦袢です。外に出ると夏目漱石の記念像と猫の墓があります。2時間くらいの参観はとっても面白かったです。夜帰りの途中、夏目漱石誕生の地の石碑が発見しました。今学期は沢山の偉人のことを勉強しました。心から先生と優しい日本人のクラスメイトたちに感謝します。

本日の見学は漱石山房記念館に行ってきました。東西線早稲田駅」1番出口で口より歩いて10分間で到着しました。新宿区に夏目漱石の生誕150周年を記念として開設した記念館です。夏目漱石『道草』草稿、夏目漱石「ケーベル先生の告別」原稿、夏目金之助漱石夏目鏡子宛書簡、津田青楓 画讃「漱石先生像」、「漱石山房書斎再現」が展示されています。一番印象に残ったのは漱石が晩年9年間を過ごした漱石山房書斎の再現です。夏目漱石はこの小さい部屋で「三四郎」、「道草」など数々の名作を作り出しました。客間では週1回木曜日に「木曜日会」と呼ばれる文学サロンが開催されます。漱石を慕う若い文学者たち(安倍能成小宮豊隆鈴木三重吉森田草平など)は漱石と自由な雰囲気で作品を論議します。日本人が夏目漱石を尊敬する理由、夏目漱石は世界にも影響を与える理由の一つは多くの門下生に助言をしまして、多くの作者志望者を育てたことだと思います。
夏目漱石の名言「月が綺麗ですね」は中国にも響いています。ロマンチックな愛の言葉として非常に有名です。「I LOVE YOU」を「あなたを愛しています」と訳さずに「月が綺麗ですね」と表現することは夏目漱石の感性や人間性を感じています。夏目漱石の作品といえば『坊ちゃん』、『こころ』、『吾輩は猫である』などが有名です。『吾輩は猫である』は人間ではなく、猫の目線で物語が描かれているところにユーモラスを感じました。最後の懇親会で皆さんと喋りながらものすごく楽しい時間を過ぎました。「立志人物論」の講義で、偉人のエピソードや名言などを学ばせて頂き大変勉強になりました。ありがとうございました。

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漱石の長女の娘の半藤末利子は漱石山房記念館の館長。半藤一利は夫で作家。私も寄付者として名前が刻まれている。

漱石の書斎の再現。書斎10畳。サロン10畳。机など本物は神奈川近代文学館に寄付。和漢洋の書物3068冊は小宮隆太郎の世話で東北大学漱石文庫(書き入れや傍線3割)。「陰清楽竹移」。40歳から9年間住む。生誕150年記念として再建。以前住んでいた家は愛知県犬山市の「明治村」に移築。その家は森鴎外も以前住んでいた。

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 終了後、神楽坂で懇親会。楽しい会。このメンバーは解散せずに、人物記念館訪問と懇親会を続けたいとの留学生の提案があり、皆さん賛成された。幹事も決定。次はどこにしようか?

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以下、私の所感と新情報。2年たって漱石山房はずいぶんと充実している。

 ・木曜会:午後3時から・10年間。文学サロンに発展。死後は「九日会」(月命日9になる。

・「漱石山房」に関する弟子たちの書物を読もう!。「漱石山房の秋」「山房の秋」(内田)「ああ漱石山房」、、、。先生の在り方。寺田寅彦安部能成鈴木三重吉森田草平、松根東洋城、野上豊一郎、岩波茂雄、安部次郎、内田百閒、小宮豊隆芥川龍之介久米正雄、松岡譲、。森田草平「啓発される。理解してもらえた」

漱石158センチ。1967年生まれなので、明治38年に書いた「吾輩は猫である」は38歳の作品。38歳から11年間の作家生活。

 ・「通常展-人と人を結びつけることば展」。「ケーベル先生の告別」(東京朝日新聞1914.8.12)の中で漱石は「先生に一番大事なものは、人と人を結びつける愛と情である」と先生の在り方の神髄を述べている。漱石は弟子たちに宛てた書簡には、人と人を結びつける言葉にあふれている。ケーベル先生(①848-1923)は帝大の中で一番人格の高い教授との問いには百人のうち九十人がケーベル先生と答えるであろうと。21年間日本で生活。ドイツ系ロシア人、ベルリン大学1893年45歳の時に東京帝大の外国人教師になる。東京音楽学校でもピアノと音楽史を教えた。滝廉太郎山田耕作が学んだ。第一大戦の勃発でドイツに帰れずに横浜のロシア総領事館で亡くなるまで暮らした。

漱石は俳句がいい。子規より好きだ。「菫ほど小さき人に生まれたし」「ちらちらと陽炎立ちぬ猫の家」「菜の花の中に小川かな」「草山の馬放ちけり」。

・新聞の連載小説「一回一回で筆を止めて、後は明日まで頭を休めて置いた方が、よく出来そうに思う」。

・9時から10時に起床。朝食後昼食まで執筆。午後は漢詩、謡の稽古、散歩。朝食はパンと紅茶。パンは火鉢で焼いてt砂糖をつける。夕食は一汁2、3菜、香の物、メインは肉と野菜が交互。牛鍋が好き。酒はあまり飲めない。赤くなる。甘いものが好き。ジャムが鉱物。二男五女。

・四谷の古道具屋に里子に出される。すぐに町方名主であった生家に戻される。四谷太宗寺門前名主・塩原の養子になる。「俺は六人の末子で両親から余計者、要らぬ子と扱われた」。「ひとつ間違えると大泥棒になる、ただし名前に金か金偏の字をつければ難を逃れる」と言われ、金之助と命名された。

・留学2年。心理学、社会学から文学を論じようとした。

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午前は、「立志人物伝」能力14回目の授業。

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久米先生の私の授業の実況中継。

【多摩大 久恒啓一副学長講義「立志人物伝」
 宮尾登美子 葉室麟 斉藤十一 松平康隆
 宇野精一 小森和子 芦田伸介]

古今東西の名言探究者、久恒先生曰く「人は出会った人の言葉で成り立っている」。立志人物伝を受講して偉人たちの名言と生きざまに触れた学生の感想が興味深いのです。

「本を読みたい」「計画を立てたい」「なぜ偉人は名言を言えるのか」「意外に偉人は人間くさい」等々

私は、大学時代になすべき最も大切なことの一つは「生涯の師」に数多く出会うことだと考えます。この講義を半年聴講した私の素直な感想は「私も大学入学時に受けたかった」。今でこそありがたいことに「生涯の師」に恵まれて学びの日々を送っている私ですが、もう少し遠回りをせずに済んだことでしょう。

本日、私の心に刺さった久恒先生の言葉は「ある仕事をした人は自分自身になっていく」です。

先生のブログで紹介された、歴史作家が作品の中で登場人物に語らせている言葉の数々が好いのです。

清麿正行という刀工は「刀は、、わたしそのものでございます。これが俺だ。古今どこにもないおれの刀だ」
山本兼一「おれは清麿」より)

葛飾北斎の娘お栄は、「わたしはわたしになりたいんだ。そのわたしに、まだ手が届かない」
朝井まかて「眩」より)

こうした自分自身でしか評価できない「永遠未完のライフワーク」を完遂することこそ人生のゴール。そのために、芸術家たちは、命をすり減らし、いくら時間があっても足りないと感じるのでしょう。

12月30日。宮尾登美子「書きたいことはいっぱいあり、全部書くには二百歳まで生きなくてはなりません」
https://note.mu/hisatune/n/nc832b98966d4

12月23日。葉室麟「体調管理を万全にして、なすべき仕事をなしとげなければならない」
https://note.mu/hisatune/n/n78e354ad45d1

12月28日。斎藤十一「芸能人には引退はあるが、芸術家にはない。書きながら柩に入るのが作家だ。、、時に私の死期も近いから、私への香典原稿を一作頂きたい」
https://note.mu/hisatune/n/nec46d28ba502

その他の名言も味わい深いものばかり。

これから始まる新元号、予測不能で不連続な世の中の幕開けにふさわしいので、ぜひご一読くださいませ。

12月31日。 松平康隆「金メダルを狙うには、非常識を積み重ねていくしかないんだよ」
https://note.mu/hisatune/n/nec46d28ba502

1月7日。宇野精一「『平成』は平和な時代だけれども、その平和は実は武器のおかげで、そしてこれまで国のために命を捨てた人々のおかげで保たれているのです」
https://note.mu/hisatune/n/n81d8a48865fb

1月8日。小森和子「ダメならダメでしようがない。まずは思った通りにやってみよう。そんな度胸のよさが人生を切り開いてくれることもあるのね」
http://k-hisatune.hatenablog.com/archive/2019/01/08

1月9日。芦田伸介「次々と私の人生という名の『舞台』に登場してくる『名優』たちのおかげで、私の『人生劇場』が波乱万丈になった」http://k-hisatune.hatenablog.com/archive/2019/01/09

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彩藤T先生から「Looking Glass」を見せてもらう。

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「名言との対話」1月11日。福田繁雄「『あなたの代表作は?』『今制作中の作品です』」

 
   
   
   

福田 繁雄(ふくだ しげお、1932年2月4日 - 2009年1月11日[1])は、日本グラフィックデザイナー。単純化された形態とトリックアートを融合させたシニカルなデザインが特徴。「日本のエッシャー」。

岩手県立福岡高等学校を経て東京芸術大学図案科卒業。大学在学中に日本童画会展アンデルセン生誕150年記念賞などを受賞。卒業後、味の素デザイン室を経て、1958年フリーとなる。1966年、日本宣伝美術会会員[6]1967年日本万国博覧会の公式ポスターに入選して脚光を浴びる。また、万国博覧会会場の迷子標識などの絵文字(ピクトグラム)も手がけた。1969年よりカゴメアートディレクション担当。1972年ワルシャワ国際ポスタービエンナーレ金賞を受ける。1975年ワルシャワ戦勝30周年記念国際ポスターコンクールのグランプリ作品『VICTORY』で世界的名声を得る。1976年芸術選奨新人賞受賞。1978年、東京芸術大学美術学部デザイン科講師[10]1981年-1986年、東京芸術大学助教授。のち、客員教授。1985年つくば科学博でも「子供広場・さがし絵の森」「UCC館」などを担当。1997年紫綬褒章受章。2000年、日本グラフィックデザイナー協会会長。1966年、毎日デザイン賞から、2007年の勝美賞まで、内外の多くの賞を受賞している。

疎開して高校までを過ごした母の実家のある岩手県二戸市福田繁雄デザイン館があり、ポスター、グラフィックアート、版画、イラスト、立体オブジェなど、企画展ごとに展示されている。ここも田中館愛橘記念館とともに訪問したことがある。 2007年、台湾の東方技術学院に福田繁雄設計芸術館がオープンしている。

以下、『デザイン快想録・福田繁雄』にみるデザイン観を追う。

・情報を受ける人間の視知覚を(見るという感覚、知るという感覚)考えることから新しいビジュアル・コミュニケーション(視覚伝達)がスタートする。

・インテリア・デザイン、インダストリアル・デザイン、グラフィックデザインと進んできて、今後は総合的な知恵の結晶されたアート・デザインになっていく。

・デザイン、時代の感性という領域の壁を読み、現実のテーマをキャッチする、ビジュアルなレーダーをもったクリエーターが、アート・ディレクター。

・デザイン、  ごく平凡で、なにげなく、見過ごしてから一瞬ギクリと硬直して立ち止まり、小膝をたたいて生き甲斐を感じる、、、そんなデザインを創りたい。

・ヴィジュアル・ショック。

・デザインは、世界共通の視覚言語です。

 

「これほど、多忙な国際人で、第一線で活躍を続けるデザイナーでありながら、福田には、事務所とよぶ場所、そして下仕事をしてもらうアシスタントや営業のためのスタッフはいないのである。様々な、仕事の電話のやりとり、デザイン原稿の作成、スケジュール管理まで、すべて福田一人の手元で行われているのである」と福田は紹介されている。人を雇わずに一人で仕事をしたのである。「こんな面白いコトをどうして他人に任せられますか。もったいないよ。自分が楽しまなくっちゃ」。

モノ書きではなく、モノ描きであることを自称する福田繁雄は、「造形こそが私の魂なのだ」とデザインの道を迷いなく歩き続けた。「あなたの代表作は?」と聞かれて、いつも「今制作中の作品です」と答えていた。「あなたの最高の傑作は?」という問いにチャプリンは「次の作品です」と答えていた。福田繁雄も同じように、常に次の仕事を自身の最高の作品にしようとしていたのだ。代表作、最高傑作を追い続ける勇気をもらった。

デザイン快想録
 

デザイン快想録

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

岩手県二戸市