午前は人事委員会、学部運営委員会。夜は多摩センターで飲み会。

キャンパス

・人事委員会

・学部運営委員会

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研究室と自宅

・AICHIの塩屋・松本さんと書棚の相談。

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京王プラザホテル内の「京王ビズ」。

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多摩センターの酒の専門店「里庵」。4月から多摩大教授に就任する多摩信金の長島さんと松本先生と3人で多摩大と多摩大総研の今後のことを話し合いながら日本酒を楽しむ。トップ、キャンパス、探訪、総研のプロジェクト、、、、、。

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「名言との対話」1月30日。服部良一器用な人はダメ。僕みたいに不器用でなきゃ」

服部 良一(はっとり りょういち、1907年10月1日 - 1993年1月30日)は、日本の作曲家編曲家

大阪市立実践商業に通いながら少年音楽隊に入隊。卒業後,のちの大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団。かたわら、エマヌエル・メッテルの指導を受ける。 1933年上京し,ジャズの編曲で注目され,1936年コロムビアレコードに専属作曲家として入社。

1937年、30歳。淡谷のり子が歌った『別れのブルース』が大ヒットする。感傷的なブルース調の『湖畔の宿』 (高峰三枝子) 、「君がみ胸に抱かれて聞くは」で始まる『蘇州夜曲』 (霧島昇渡辺はま子) などで人気作曲家となる。第2次世界大戦後に音楽活動を再開。 1948年、「東京ブギウギ リズムうきうき」で始まる『東京ブギウギ』 (笠置シヅ子) 、1949年、「若く明るい歌声に」で始まる『青い山脈』 (藤山一郎) とたて続けにヒットをとばし,日本ポップス音楽界の草分けとしての地位を築いた。 1958年には,日本作曲家協会理事長として「日本レコード大賞」を設立。没後、3歳年上のライバル・古賀政男に次いで作曲家として2人目の国民栄誉賞が授与された。

服部良一は「交響的な音楽によって、民族のポエジーを、日本特有の美しい魂の詩を、描きたい」との夢を持続し、「大阪カンタータ」を3年かけて完成させる。この交響曲朝比奈隆指揮の「大阪フィルハーモニックオーケストラ」が演奏した。二人は若いころのメッテル門下である。

絵画、彫刻などの静的芸術は感動して涙ぐむほどの感銘を与えない。動的芸術である音楽は人の心を打つ、と服部は言う。確かにカラオケで歌っているときなど、メロディーに載った歌詞が心に響き涙がでてくることがある。音楽は聴く人に感銘と悦楽を与える。

息子の服部克久は「天真爛漫、無茶苦茶、自由人、天才、寂しがり屋の飲み助、甘い父親でこわい先輩、ルーズで几帳面」と語っていて、服部良一人間性を感じさせる。

激動の20世紀を生きた服部良一は、生涯にわたって時代の変化を敏感に感じ取り、それを曲として発表し続けた。音楽で時代そのものと格闘したが、時代にも翻弄されている。「雨のブルース」は破局に向かう近代日本の悲しき運命を予感させる哀歌である。「山の寂しい湖にひとり来たのも悲しい心」で始まる高峰三枝子「湖畔の宿」は官憲からの批判があった。

時代の変化を受け入れ、人々の心にヒットする歌を作り続け、生涯を通じて 3000曲を超える作品を残した。その服部良一は、不思議なことに、自身を不器用と認めている。落語の桂文楽も「器用じゃ ダメなんです」と言っていることを思い出した。器用であることは成功の条件ではない。不器用であるからこそ真摯に取り組むことができる。不器用こそが武器なのだ、との服部良一の述懐に深い共感を覚える。 

評伝 服部良一: 日本ジャズ&ポップス史

評伝 服部良一: 日本ジャズ&ポップス史