新宿の都庁で「高度技術政策研修」の講師ーー「合意術ーー説得型行政から納得型行政へ」

「高度な技術政策に対応するための知識、技術を身に着けることにより複雑化・高度化する行政に対応できる職員を育成する」のが狙いの研修。

対象は行政技術者として組織の中核的人材となる職員。27歳以上45歳未満。2年間月2回の研修。1年目は課題発見解決演習。2年目はテーマ別研修・研修生希望講義。

私が呼ばれたのは、研修生の希望によるということだった。

f:id:k-hisatune:20190207191349j:image

テーマ「合意術ー説得型行政から納得型行政へ」。講義1時間、演習1時間、グループ討議45分、質疑応答など30分。

受講者の所属は以下。スポーツ推進部。都市づくり政策部。市街地整備部。第一市街地整備事務所。市街地整備部。総務部技術管理課。東京港湾事務所高潮対策センター。多摩水道改革推進本部流域水道本部。計画調整部。計量検定所。土木設計課。北部下水道事務所。

以下、終了後のアンケートから。

・目からうろこだった。

・普段考えている世界が小さいことがよくわかった。漠然としていたものが明瞭になり、大小や関係やつながりがよくわかるようになりしました。

・国会の審議会等も文字ベースでなく、図解ベースを増やしていけば、真に意味ある議論が高まるように感じた。国民ももっと審議に加われる。

・頭の中が整理されていくことを演習を通して体験できた。

・読書法として活用してみたい。

・仕事の図解で、知事や都民が登場してこそ本当の目的や役割が理解できるとわかった。

・知事や都民との関連性を考えていないことがわかりました。意識が変わりました。

・研修の最終発表など、PPT作成の参考になった。

・「見える化」がはやって定量情報をだすようにしていますが、都民にはピンと来ていないのかも知れないと気づきました。トレーニングしたい。

・事例や演習を交えた講義のため集中して取り組めた。数字や具体例を追記する必要性を学んだ。ドラッカーの事例がとてもわかりやすかった。

f:id:k-hisatune:20190207191359j:image

f:id:k-hisatune:20190207191413j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

午後は、上野の国立博物館で「顔真卿ーー王義之を超えた名筆」をみた。

f:id:k-hisatune:20190207191422j:image

 -------------------------

 「名言との対話」2月7日。田部文一郎「幾山河 越えさり行かば 寂しさの終てなむ国ぞ 今日も旅ゆく」

田部 文一郎(たなべ ぶんいちろう、1907年明治40年9月5日 - 2002年(平成14年)2月7日)は、日本実業家三菱商事社長・会長、日本商工会議所副会頭。1982年(昭和57年)勲一等瑞宝章受章。

田部文一郎の経歴と到達点をみると順風満帆の人生のように思うが、意外なことに、時代の激流に翻弄された人生だった。ニューヨーク勤務で日米開戦に遭遇し強制収容されたこと。満州で迎えた敗戦と混乱に身を置いたこと。戦後の三菱商事解散とその後の大合同の体験。戦争体験をした人々の辛苦はすさまじいものだったことがわかる。三菱商事のトップとして名前は知っていたが、このような人生を歩んだとは知らなかった。

・ いつでも、人はヤケクソになってはいけないと思う。その状況下で最善のものは何かと考え、それに向かって努力する。それでも駄目なら、仕方がないが、あくまでも最後まで努力しなければならない。人生に困難はつきものである。要はそれに向かう当人の心の持ち方である。

・長い人生の中では「これで駄目かな」と思うことが何度かある。しかし、ヤケクソになってはいけない。何度突き放され、苦境に陥ろうとも、実力で這い上がるぞという気力、精神力が必要である。そういう努力する自分の姿は、誰かが教えてくれているものだ。捨てる神あれば拾う神あり。私はこう思って人生を生きてきた。

 『幾山河ーー私の体当りビジネス戦記』を読んだ。 新入社員の頃から折に触れて「将来は社長になる」と公言し続けてきた田部は、専務、副社長の頃には、適格者は自分しかいないと思っていたが、どうなるかはわからないから、「うかつにものはいわない」ようにしていた。その時の心理描写も面白かった。

「社長になるには、実力と努力と、それに運がそろわなければ、なかなか難しい」「大会社の場合は、何よりも人事が大事だ」「誰が見ても公平だと思う人事のできる男」「人事にえこひいきをやる心配のない男」などの言葉がでてくる。人事についての心すべき名言である。

第一次オイルショックの後で物価が暴騰し、商社性悪説が蔓延し、社長が国会に呼び出されるような時期に藤野社長から社長就任を打診されたときには「この困難なときを打ち破ります」と決意を述べている。社長就任時には、不良債権は2000億円に上るといわれたが、この後始末に辣腕ぶりを発揮し「将来に悪い債権は絶対に残すまい」と在任中に償却、整理した。もともとは積極派だったが、時代とテーマの要請にしたがったのだ。

 幾山河 越えさり行かば 寂しさの終てなむ国ぞ 今日も旅ゆく」は、若山牧水絶唱であるが、一緒に苦労した妻と話し合って自伝のタイトルを『幾山河』とした。ビジネス戦の戦友同士であった夫婦の歴史と心情が垣間見える。誰にとっても人生は、幾つもの山を越え、幾つもの河を越えて行く旅である。同じタイトルを用いて自伝を残した伊藤忠瀬島龍三の回想録もそうだが、戦争経験者である彼らの山は高くそびえ、河の流れは濁った激流であった。戦後世代の我々には想像するしかないが、そういった旅を終えた感慨がこのタイトルにはある。 

幾山河―私の体当りビジネス戦記 (1984年)

幾山河―私の体当りビジネス戦記 (1984年)