4月発刊予定の新著の「まえがき」を書く。

4月発刊予定の新著の「まえがき」を書く。

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2005年から本格的に始めた「人物記念館の旅」は、2018年末で850館を超えてきました。古今東西の人々に深く、広く、長く、そして永く影響を与えてきた「偉い人」の人生を旅する魅力に憑りつかれています。

その延長線上に、2004年9月28日以来毎日書き続けているブログとnoteというサービスに、「名言との対話」というテーマで「偉い人」の名言を取り上げ、彼らの生涯を簡潔に紹介し、私の感慨や感想を記すという修行を始めました。   

2016年は、「命日編」としてその日に亡くなった人を取り上げました。2017年は「誕生日編」としてその日が誕生日の人。2018年は、平成を自分なりに送る意味もあり、平成の30年ほどの期間に亡くなった人を取り上げる「平成命日編」、そして2019年も同じテーマで書き続けているところです。

この修行も4年目に入りましたから、すでに1000人を超える人の人生と向き合ってきたことになります。自伝や伝記を中心に読み、資料に目を通し、一人の人物を自分なりに解釈していくという毎日の朝の時間は、私にとって至福の時間となっています。

この中で、感じたのは日本が太平洋戦争で敗北し、国土が焼け野原になったことを目撃した人々の「志」が、戦後の奇跡的な復興と経済成長を実現させたということです。食、健康、美、文化、教育、メディア、電機、養豚、映画、酒、芸術、電力、花、出版、ファッション、スポーツ、漫画、情報、テント、テレビ、新聞、ホテル、書店、、、などあらゆる分野で、それぞれの人が志を立て、復興に挑んでいった結果の総体として、今日の日本が創られたことを改めて感じる日々でした。この本では、事業家・経営者の「極上の言葉」とその言葉が語られた背景を紹介したいと思います

混迷を深めつつある現在の日本と志を失いつつある日本人は、難題に立ちすくむばかりでなく、戦後の日本を築いてきた先達の志から学び、次の時代に備えたいものです。ここでは、志とは、社会の不条理の解決に、自らの職業や仕事で貢献することと考えています。

人選は、没年順に並べてあります。60歳で亡くなった人と90歳まで生きた人は実に30年という一世代に相当する長い時間の落差があります。多くの人は晩年に向かっていい仕事をする傾向があり、生年よりも没年が大事なのです。

ビジネスマンとして仕事の心構え、リーダーとして心得るべきこと、人生の先輩としてのアドバイスなどをじっくりと味わいながら、人物中心の戦後史の旅をご一緒しましょう。

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自宅の粗大ごみを撤去。

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大学

・研究室で整理。

・飯田先生:引っ越し談義

・ラウンジで今泉先生と雑談。山本さん、加藤先生が加わる。

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「名言との対話」2月14日。和田寿郎「死んだ気になって、今いちどやってみることではないだろうか。それしかない。そうすれば、おのずと道は開けるはずだ」

和田 寿郎(わだ じゅろう、1922年3月11日 - 2011年2月14日)は、日本心臓血管外科医

札幌一中(札幌南高校)を4年で終了し、北海道帝国大学医学部に進学。アメリカ留学後、札幌医大に奉職。

35歳、全国最年少で教授に昇進。テレビ番組でJALのスチュワーデスを見初め、ラブレターを書いて、結婚するといった行動力の持ち主だった。

石狩川渡し船の船頭の流れにさからわないかじさばきからヒントを得て、血流をスムーズに制御できる蝶番のない弁を考案し、ワダ・ベンを開発するなど、臨床医学一筋の人生だ。

1968年、日本初の心臓移植手術を執刀し、その年の国内十大ニュースのトップになった。和田心臓移植は称賛されたが、18歳の宮崎君が移植後83日で亡くなったことにより急変し、マスコミの大バッシングを受けた。臓器提供者の脳死判定の手法が適切だったかや、患者が移植を必要としていたかをめぐり、医学界で議論が巻き起こった。内部告発殺人罪での告発もあったが、不起訴になっている。いわゆる和田心臓移植事件である。

世界各国で先鞭をつけた心臓外科医は、みな告発、告訴されている。新しい医療行為は医師が切り裂かれ傷つきながら、道を切り拓いてきた歴史なのである。この影響で、1997年の臓器移植法施行まで脳死移植に関わる空白期間が生じた。

同じ札幌医大の医師・渡辺淳一は、和田寿郎教授による和田心臓移植事件を題材にした『小説・心臓移植』(1969年3月。後に『白い宴』と改題、角川文庫)を発表し、大学を去る。渡辺は「和田の手術の技量はずば抜けていたが,脳死判定は間違いで,脳死移植に対しての国民の拒絶反応を強くしてしまった」と語っている。

1977年、55歳。 東京女子医大の榊原仟教授から請われて、東京女子医大の主任教授に転出する。札幌医大で16名、東京女子医大で13名、計29名の同門の教授を育てた。「実技であり、スポーツと同じだ」とする手術は2万5千例を超えている。「真の教育とは、むしろ必要な基本だけを十分に理解させ、その先は自分で考え、自分で道を開かせるようにすべきものだ」。教育者としても和田は成功している。

『神から与えられたメス』という自伝には、医学界への提言も並んでいる。お見舞いは献血で!。運転免許証に臓器提供の「意思表示」を。空飛ぶ救急室の充実を図れ。屋上にヘリポートの義務づけを。病院長は医師ではなく専門職を。医師はゼネラリストをめざせ。内科と外科のバリアを取り払え。ヘリが操縦できり医師を。医師は信仰できる宗教を持て。神父や僧侶との協力を。医学生に救急車への同乗を義務づけよ。患者が置き去りの学会は変えよ。、、、、。

「死んだ気になって、今いちどやってみることではないだろうか。それしかない。そうすれば、おのずと道は開けるはずだ」。これは札幌医大を辞職して新しい病院を建てようとしていた和田に大野精七学長が涙ながらに語った言葉である。和田寿郎は決心を変える。それ以降、ひたすら「わが道」を行く。道はおのずと開ける、この言葉を信じよう。

 

神から与えられたメス―心臓外科医56年の足跡

神から与えられたメス―心臓外科医56年の足跡