「顔真卿」‐王義之を超えた名筆」展(国立博物館平成館)

国立博物館平成館で開催中の「顔真卿」‐王義之を超えた名筆」展。

 中国の書の歴史においては、王義之に代表される東晋時代と、顔真卿(709-785)が代表する唐時代が最盛期である。理知的な筆法を習得したうえで、さらに豊かな情感を盛り込んだ書である。「顔法」と呼ばれた筆法は力強くおおらかで親しみやすい。

41人の文人との詩会で揮ごうした「蘭亭序」と、甥の若き顔季明の首を前に書いた「祭し文稿」が代表作。

剛直な性格であったことで左遷の連続であったため、顔真卿の赴任地と足跡は中国全土に及んでいることに驚いた。常に車に碑石を積み、妙筆をふるい、石匠が文字を彫った。石碑ごとに文字の表情の変化があり、「一碑一面貌」と評されている。

顔真卿の長い生涯は、私の「新・孔子の人生訓」で説明できる。壮絶な人生だった。

・生い立ち(1歳ー28歳):幼少期・少年期

学業と書に巧み。26歳で科挙の進士、28歳秘書省校書郎。官僚として立つ。

安史の乱(28歳ー49歳):青年期

8世紀の唐は衰退に向かう時代。順調に官途を歩むが、正論を吐く剛直な性格が災いし45歳で山東省の太守に左遷される。47歳、安禄山安史の乱が勃発するが、事前に見抜いて準備していた。賊軍を大破するが、顔家の一族は30余人の犠牲を払った。

・度重なる左遷(49歳ー69歳):壮年期

49歳、法務大臣から、宰相に逆らいカンセイ省の太守に左遷。山西省江西省江蘇省。52歳、中央に復帰、数か月後に四川省に左遷。54歳、中央復帰。58歳、宰相を攻撃し湖北省に左遷。江西省浙江省を経て、11年数か月にわたる地方回りを経て69歳で中央に復帰する。

・壮絶なる最後(69歳ー77歳):実年期

69歳、刑部尚書。70歳、吏部尚書。75歳、宰相の策略と知りながら反乱軍を宣慰する。「君命は避くべけんや」。幽閉され、殺害される。享年77。

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草刈正雄が主役のBSの「美の壺」で顔真卿のことと、漢字の現在と未来についてやっていた。石川九楊顔真卿の書の筆法の解説と臨書をしながら書の歴史の中での功績を語っていた。簡体文字の反省も。繁文文字への回帰の流れ。

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 「名言との対話」2月16日。淡島千景ギャランティはそんなにいらない。ただ、いろいろな監督の映画に出たい」

 淡島 千景(あわしま ちかげ、1924年大正13年)2月24日 - 2012年平成24年2月16日)は、日本女優

 宝塚時代は抜群の演技力で知られ、娘役トップをつとめた。映画界に入り活躍するが、相手役は名優ぞろいであった。映画「夫婦善哉」「駅前シリーズ」は森繁久彌東宝歌舞伎やテレビ「半七捕物帳」は長谷川一夫NHK大河「花の生涯」は尾上松緑(二代目)。映画「花の生涯」。テレビ「鬼平犯科帳」は松本白鴎。萬屋錦之助、大川橋三とも共演している。どの作品も存在感を感じる演技が鮮やかに蘇ってくる。

多くの監督の作品に出演している。渋谷実小津安二郎豊田四郎、成瀬己喜男、今井正五所平之助市川崑、木之下恵介、、、。巨匠ぞろいである。

松竹の看板女優、東宝の看板女優と言われた 淡島千景が 「私はどこの女優である、何々の女優であると思わない。とっても自由なんです、気持ちが」と言うとおりの女優人生であった。宝塚の後輩である扇千景の芸名は淡島千景にあやかってつけたし、実妹の様に可愛がられていた淡路恵子も淡島の淡の一字をもらって芸名をつけているなど後輩にも影響力があった。

月丘夢路の影響で映画界入りの時に付けた条件は、ただ一つだった。それは「いろいろな監督の映画に出たい」だった。その志を持続し、生涯独身電話87歳まで現役でその通りの女優人生を歩んだのである。戒名は「華優院慈篤慶純大姉」。