「つまらなくない生き方を」ーー研修会二日目。湘南キャンパスにて。

研修会二日目。

10時前に湘南キャンパスに到着し、キャンパス見学。

10時半から手塚明美さん(認定NPO法人藤沢市民活動推進機構副理事・事務局長)の講義を聴く。

・「つまらなくない生き方を」「事例」「多世代間交流を楽しむ」「夢をかたちに」「多少の報酬」「地域の居場所」「80歳まで届くとあとは大丈夫」「支える側で、たまには支えられる」「72、3歳に心が虚弱になりやすいから元気づける」「カネではない価値観を大事にする」「社会活動参加者はなまなか死なない」「電車、バスなど公共交通機関を使う人は長生き」「自分以外の人のためならムリができる」「社会貢献意識は65%、実際にやっている人は1割程度」「横浜ドリームハイツ・コミュニティハウス片瀬山」「地域の縁側」「老年学の沢岡先生」「仮想敵が必要」「拠点を機能的にしてしまう」「事業展開!」

・感想とアイデア:現在進行形の事例収集。あすなろ会。近所の居場所。65歳。72歳、80歳。

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大和で、弟と飲みながら食事。

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「名言との対話」3月4日。樫尾忠雄「需要があるから開発するのではなく、新しい技術があれば市場が創りだせる」

樫尾 忠雄(かしお ただお、1917年大正6年)11月26日 - 1993年平成5年)3月4日[1])は、日本実業家カシオ計算機の創業者。

1946年、商品開発ができる弟の俊雄が手伝ってくれることになり、樫尾製作所を設立し独立。俊雄に加え、和夫、幸雄も加わり、1957年にカシオ計算機を設立する。父の茂が社長となり、忠雄は専務となる。1960年には社長に就任する。俊夫はアイデア。幸男は図面をひく。忠雄と和雄で具体的な形にしあげる。四人の分業体制ができあがる。

社業が順調になった頃、兄弟はゴルフを覚えて夢中になって経営がおろそかになる。その頃、電子計算機が登場た。1964年にはシャープが発売し、経営の危機う迎えた。電動式を追い越したリレー式が、今度は電子式に追い落とされることになった。そして永年の総代理店だった内田洋行から契約を解除される。おごることの恐ろしさを骨身にしみるほど味わう。

そして1965年に、電子計算機「001型」を発表する。トランジスターやICにかわって、LSIが新しい素子になった。先陣を切ったもんだけが利益を享受できる。それが電卓市場だった。新機種投入を続け、プライスリーダーの地位を維持した。

1970年、東証2部上場。「とにかくこの世は計算さ。数と数との絡み合い、、、答え一発、カシオミニ」というテレビCMで、カシオミニが大ヒット。カシオは、事務機メーカーから消費財メーカーへと進路を変える。

精密機械だった時計は、クオーツ化・デジタル化により、電子化してきた。エロクトロニクス産業からの参入が可能になった。デジタル時計はカシオにうってつけだった。

次は、楽器である。1980年に、電子キーボード「カシオトーン201」を発売。一台の楽器で29種類の音が出せる優れものだ。

樫尾兄弟は、長兄・忠雄が財務担当次兄・俊雄が開発担当三男・和雄を営業担当とし、四男・幸雄を生産担当として、カシオ運営ていった。「家族で一緒に仕事ができたらいいなという気もちで仲良く

やっていった。珍しい兄弟会社だった。長男・忠雄の人徳もあったのだろう。1988年、28年間つとめた社長を和雄に譲る。自身は相談役に退く。

「エレクトロニクス革命は人々の生活を変えると同時に旧来の産業も一変させる。需要があるから開発するのではなく、新しい技術があれば市場が創りだせる」と言う。私も電卓、電子辞書などをよく使ったものだ。カシオには社是はないが、「創造貢献」の額は本社や工場に必ず掲げている。新技術に裏打ちされた新商品は、新しい市場を創出するのである。創造による社会貢献企業・カシオはその後も新商品を世に出し続けている。イノベーションがこの会社のDNAだ。これを機会に懸案であった 世田谷区成城の「樫尾俊雄発明記念館」を訪問したい。

兄弟がいて―私の履歴書

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