立川。多摩。代官山。荻窪。

立川で所用。

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大学に訪問いただいた大分県東京事務所で企業誘致を担当している、久保誠・中津市東京事務所長と懇談。中津出身者として故郷へのアドバイスなどをする。久保さんは耶馬渓三光村の出身。楽しかった。

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代官山で所用をすます。

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荻窪

・出版打ち合わせ

・一般社団の再立ち上げの相談。

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「名言との対話」3月8日。塩月弥栄子「「どうにかなる」という確信と、「どうにかする」と思う行動力があれば問題は解決します」

塩月 弥栄子(しおつき やえこ、1918年4月4日 - 2015年3月8日)は、日本の茶道家冠婚葬祭評論家。

利休のひ孫たちが、それぞれ独立し、表千家裏千家武者小路千家に分かれて、茶の湯を伝えてきた。その裏千家の14代家元の長女が塩月弥栄子である。裏千家のお嬢様を背負って順風の中を生きたのだろうと思うが、さにあらず、独立独歩の人だった。

荏原製作所の社主・畠山一清(即翁)の長男と結婚し、4人の子どもを残し家出を敢行し、3畳一間の間借りで自活を始める。貧しさより、自由が得られたという喜びを感じた。

1952年、再婚。茶道教室「養和会」を開く。最盛期は5000人いたのだが、顔と名前は全員覚えるようにしていた。1962年、NHK私の秘密」の藤原あきの後任としてレギュラー回答者になり、広く知られる。

1970年には一大ブームをまき起こした『冠婚葬祭入門』(光文社刊:発行部数308万部)があり、シリーズ全体(全4冊)で約700万部をの大ベストセラーとなり、同名でTVドラマ化、映画化もされた。この本のセンセーションは、わたしの記憶にもある。

「茶道こそ日本が誇る総合文化だ」と塩月弥栄子は確信している。茶の湯は点前の15分間に、過去400年分の日本の暮らしを展開させる。美しいもてなしと歴史を味わえる。茶の湯は禅の教えの「道」と、時代の「風俗」という両面を備えているとのことだ。

95歳時点で出した『塩月弥栄子95歳 思いのままに行きなさい』には、「わたくしね、120歳まで生きてまいります」と宣言しているのだが、実際には96歳で没している。最後まで意気軒高だった。

 婚家に残してきた子どもたちとは一生一緒に暮らすことはなかった。当然のことながら、結婚式にも公式には招かれなかった。それも自分で蒔いた種だと悲しみを受け止めていた。「どうにかなる」という確信と「どうにかする」と思う行動力があれば問題は解決します、という経験から身につけた逞しさが、人生を花開かせたのだ。

塩月弥栄子は、メモ魔だった。どこにいっても、その先々で克明に土地の様子や見聞を書きためていた。メモ帳は数百冊以上にのぼっている。生涯で100冊以上におよぶ著書を出せたのは、このメモ帳のおかげだった。楽観、行動力に加えて、観察力と優れた習慣の積み重ねが塩月弥栄子を創ったのだろう。

塩月弥栄子95歳 思いのままに生きなさい

塩月弥栄子95歳 思いのままに生きなさい