『多摩大学時代の総決算』。『宮城大学時代の総決算』と併せて、宮城大11年・多摩大11年の合計22年間の大学教授生活の総決算。

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多摩大学時代の総決算(2008年度~2018年度)』。こちらからPDFで。

多摩大学時代の総決算

 http://www.hisatune.net/html/01-kyouiku/tamadai_sokessan.pdf

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宮城大11年・多摩大11年の合計22年間の大学教授生活の総決算。

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久恒啓一図解Web :: さよなら講義−宮城大学時代の総決算

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「名言との対話」。3月31日。新崎盛「自分自身が沖縄現代史とどうかかわって生きてきたか」

 新崎盛暉(あらさき もりてる、1936年1月27日 - 2018年3月31日)は、日本の歴史学者評論家。

二・二六事件のひと月前に、沖縄出身の両親のもとに東京で生まれた。東京生まれのウチナンチュウー(沖縄人)である。高校、大学と「沖縄」を意識し、卒業後は「沖縄を生きる」ことにする。東大時代は日高六郎、尾高邦雄のもとで勉強する。弁護士、ジャーナリスト、琉球大学の助手、沖縄タイミス記者、教員など進路をいろいろ考えてきたが、偶然から東京都庁を受験する。最下位合格だった。日高の紹介で1960年に沖縄資料センターを立ち上げた中野好夫と出会う。「大学教授では飯が食えん」と東大教授を辞めたという伝説の持ち主の中野好夫は、「飯を食うことを甘くみてはいかん」と本職は適当にこなしながら沖縄の勉強をすることを勧めた。25歳から都庁と沖縄資料センターの二足の草鞋を履くことになった。

沖縄の本土復帰後、38歳で沖縄大学の教員として採用されることになる。「沖縄闘争の伴走者としての物書き」を自任していたが、1974年3月に家族ともども沖縄に到着、その後は沖縄にどっぷりとつかることになる。新崎は大学では学長、理事長もつとめた。そして市民運動をけん引してきた。

今回読んだ『私の沖縄現代史』(岩波現代文庫)は、自分自身が沖縄現代史とどうかかわってきたかを書いた本である。2016年10月の書いたこの本の「あとがき」では、以下のように基地問題をとらえている。

「使い勝手の悪くなった普天間基地の返還を口実にして辺野古に弾薬搭載や強襲揚陸艦の接岸岸壁を備えた新基地を建設すること、米海兵隊にとって利用価値のない北部訓練場の北半分を返還して南半分にヘリパッドを集約することを意味した。政府は、面積の減少が負担軽減になると強弁している。しかし、高度な基地機能の新設と集約化は基地負担の増大を意味している」。

自分から突き放して客観的に沖縄の戦後史・現代史を書いきた。それは『沖縄現代史 新版』『沖縄同時代史』(全10巻、別巻1)『現代日本と沖縄』『日本にとって沖縄とは何か』などに結実している。最晩年に書いたこの書は、新崎の自分史であり、沖縄と日本の激動の同時代史である。出自を強く意識し、志を育て、一生をその実現のために捧げた人の物語である。