出発進行!

昨日で11年間の多摩大の、もっと言えばその前の11年間の宮城大時代をも含めて22年間の専任教授生活を終えた。

本日から、多摩大学特任教授を拝命。学部は春秋1コマづつ、大学院は春1コマの授業も担当。また多摩大学総合研究所所長としての仕事は継続する。

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午前:多摩大総研に出勤。近藤秘書とスケジュール、講演資料準備など。

午後:立川。

夕刻:日本地域社会研究所で落合社長と懇談。「地と知を結ぶネットワーク」。

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元号「令和」の発表あり。メディアは「命令の令」と説明していたが、印象が悪い。そうではなく「令嬢の令」など良い意味の言葉で伝えるべきだと思う。「よき」という意味なのだから。

『女流歌人が詠み解く!万葉歌の世界』(久恒啓一監修、久恒啓子著)の162ページに「梅歌の宴」という項がある。 

 「天平二年(730)正月、旅人は帥(そち)の官邸で盛大に梅花の宴を催した。集まった人々は、大宰師大伴旅人をはじめ大弐以下府の官人二十一名、九国三島から筑紫国山上憶良をはじめ十一名、計三十二名であった。大陸から渡ってきた梅の花を愛でつつ風流に遊ぶというこの文芸活動は、文学史の面からみても貴重な資料であるといわれている。、、梅花の宴の歌三十二首の殆どは、梅の花をかざして歌え、舞え、遊び暮らそうといった歌が多く、、、」とある。

その万葉集の梅花の歌三十二首の序に「令」と「和」がある。「天平二年正月十三日、師老(そちろう)の宅(いえ)に集まり、宴会を申(の)ぶ。時に、初春の令月、気淑(うるわし)く風和(やわら)らぐ。梅は鏡前に粉に披き、蘭ははいご?の香に薫る。

加上(しかのみにあらず)、曙の嶺に雲移りて、松は羅を掛けて蓋(きぬがき)を傾け、夕(ゆうべ)の岫(くき)に霧結びて、鳥は穀(こめのきぬ)に封(とぎ)されて、林に迷ふ。庭に新蝶舞ひ、空に故雁帰る。ここに、天を蓋(きぬがい)にし

地を坐(しきゐ)にし、膝を促(ちかづ)け、さかづき?を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うち)に忘れ、衿(ころものくび)を煙霞(えんか)の外(ほか)に開く。淡

然として自ら放(ほしいいまま)にし、快然として自ら足る。若し翰苑に非ざれば、何を以てか情(こころ)をのベむ。詩に落梅の扁(へん)を紀(しる)す。古今それ何ぞ異ならむ。宜しく園梅を賦して、聊(いささ)かに短詠を成すべし」。

「初春のよき月、気は麗らかにして風は穏やかだ」が「令和」の意味するところだ。そういう世の中になることを祈念した命名である。母にも電話。万葉ブームがくるだろう。

#令和 #万葉集 

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今日の収穫ーー図解。

「魏にしても宋にしても、自国を中心に据えた世界図を描きたいと思っている。天下を統一するということはすなわちこの図を描くということです。かつては秦の始皇帝がこれを実現しました。」(池澤夏樹日経新聞連載小説「ワカタケル」204。190401).

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 「名言との対話」4月1日。、五味康祐「私が死ぬとき、もし、天候に異変があったら、わたしはベートーヴェンのもとに往くのだ、そう思ってくれと家内に言ってある」

五味 康祐(ごみ やすすけ1921年12月20日 - 1980年4月1日)は、日本の小説家

中学時代には退学処分になりかけるが、「困難は伴うけれど独学でも文学の道を進むつもりです」と決意を述べて退学は取り消しとなった。

戦争時には、「日本の国体に目を注ぐか、目をつむるか、この二つの方向しかない。五味は大和路に仏像の美をさぐり、「国のまほろば」が象徴するものに、いのちをかけた」。

徴用逃れのために明治大学し、亀井勝一郎の門下につらなる。戦後は、保田與十郎を生涯の師とする。保田は「心やさしい、天然自然の男である。彼のやることふるまいことは、みなおのづから作為や思惑がない」と『現代き?人伝』で評している。

五味は純文学を志していた。『喪神』で1953年、第28回芥川賞を受賞したのだが、この小説で剣豪小説のレッテルが貼られてしまう。1956年の「週刊新潮」創刊時から「柳生武芸帳」を連載。精神性の表現と格調高い文体は人気を博し、柴田錬三郎の「眠狂四無頼控」と双璧となった。「五味の柳生か、柳生の五味か」といわれる。流行作家となった。

手相『五味手相教室』。観相学『五味人相教室』。麻雀『五味マージャン教室』。五味の世界は広い。「直観は誤らない。誤るのは判断だ」はマージャンの名言である。しかしカーマニアとしては、事件を何度も起こしている。

2014年には練馬区立石神井公園ふるさと文化館分室の2階に「五味康祐資料展示室」が開設されており、五味の集めた膨大な遺品でしのことができる。

五味はオーディオの神様でもあった。『西方の音』『オーディオ巡礼』などの著作がある。ベートーヴェンの第九交響曲については「無名の文学青年でルンペン同様の流浪時代に、町のレコード店からもれてくる「メサイア」第二部(受難と贖罪)の合唱を聴いて胸をふるわせ、落涙し、再起を己に誓ったのを「忘れえない」(『いい音いい音楽』)。そして「私が死ぬとき、もし、天候に異変があったら、わたしはベートーヴェンのもとに往くのだ、そう思ってくれと家内に言ってある」と語っている。

五味康祐の名はよく聞いていたが、剣豪小説を書く流行作家であり、やや怪しげな印象を持っていた私は、五味の本は読んでいない。五味の若い時代の遍歴や、オーディオの神様などと称される関心の広さと深さに感銘を受けた。反省し、五味康佑の本を読むことにしたい。

『天の聲 西方の音』の中で「私は観相をするが、多分自分は五十八で死ぬだろうと思う」と予言している。そして五味康祐は本当に58歳で亡くなっている。