昼食会:宮城大一期生の中国人実業家。海を描く第一人者の中国人画家。中国共産党の幹部で有名な書家。

アルカディア市ヶ谷のレストランで、蔡君と3人の中国人と昼食。蔡君は宮城大一期生で実業家。

周智彗さんは、「海」を描く第一人者の画家で、北京の迎賓館の釣魚台で会ったことがある。「中国画海第一人」。この人の絵は人民大会堂や国連でも飾っている。美術館は4つある。

もう一人は趙鵬さん。この人は共産党を支える「中国根」という文化活動を中心とした組織のトップで有名な書家。「菊」という書をいただいた。

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帰宅後、ひと休みして、ジムへ。ストレッチ、筋トレ、ウオーキング30分、ストレッチ、バスで2時間。

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「名言との対話」5月18日。魁傑「力士である前に立派な社会人でありたい」

魁傑 將晃(かいけつ まさてる、1948年2月16日 - 2014年5月18日)は、花籠部屋所属の元大相撲力士

柔道の特待生として入学した日大を中途退学し相撲界に入り大関として活躍した。引退後は年寄・放駒として放駒部屋の師匠となり、日本相撲協会第11代理事長をつとめた。

高校柔道部時代は恒例の相撲のまわしをつけるイベントが嫌で参加しなかったり、相撲界からの誘いを渋っていたが、いやいやながら入門することになる。途中で脱走をしたが、連れ戻されている。大関陥落後に、再度精進して二度目の大関をつかむという珍しい経歴だ。初土俵以来「力士は土俵あってこその命。休場は試合放棄と同じ」との考えを持ち、一度の休場もなかった。これは勝つ可能性があるなら全力を尽くすべきだという信念から出た言葉である。引退発表の席では「13年間、精一杯にやって来て、悔いは無い。」と笑顔で語っている。

育てた関取は横綱大乃国以下11人師匠としては「弟子には特別なことは要求しない。社会人として迷惑をかけない。それだけは頭に入れてほしい」という思いで指導した。2010年には大相撲野球賭博問題などの責任を取って辞任した武蔵川理事長の後を受け、第11代日本相撲協会理事長に就任し、その後に発覚した八百長事件の処理に奔走した。辞任後も用意された役職にも就くことはなかったクリーンな人だった。

冒頭の「社会人」発言には、「私はチョンマゲをつけているから魁傑ということで、皆から立てられています。しかし、私は土俵の外では30歳の、西森というただの青二才です。それを忘れてはならないと思います」との謙虚な思いがあった。

何ごとにも誠実で取り組む姿勢と自分にも厳しかった高潔な人柄で理事長として大相撲の危機を乗り切り、「存亡の危機に大相撲を救った希代の名理事長」と評価された。相撲界の恩人、もっと言えば相撲を愛する日本人の恩人である。名大関、名理事長と、この人の仕事には「名」という冠がついてまわる。1965年からテレビ放映された「怪傑黒頭巾」をもじって、色黒の魁傑は現役時代には「魁傑黒頭巾」とも呼ばれているのだが、この人の理事長時代の仕事ぶりをみると、解決黒頭巾でもあったとも感じる。