午後から夜:「映画ニューヨーク公共図書館を見て、図書館の未来についておしゃべりする会」。昼:新たな出発を家族に祝ってもらった。

岩波ホール「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブルス」を見た人たちの図書館のあり方を巡るミニミーティングに参加。場所は新宿区の西戸山中学校。高田馬場から徒歩10分。全国の図書館で300回以上の講演をしている図書館の鬼・仁上さんと仕掛け人・橘川さんの掛け合いで進行。

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建築設計事務所の代表、大学の建築学科の先生、西戸山中学校の副校長、編集者、墨田区の久米さん、電器通信メーカーの人など多彩な人がいた。図書館についてはよく知らなかったので、とても勉強になった。以下、キーワード。

シアトル公立図書館(2004)。市民のサードプレイス。佐賀の武生のツタヤ図書館。居場所。大学図書館の夜は高齢者や社会人が多い。音楽会。児童にも図書館は人気がある。面白い大人と出会い。杉並区図書館。カフェ併設。人力で十分。ビヨンド・ブックス。国会図書館。仕事場。上野児童図書館。黒人資料館。自己否定する図書館。予算獲得会議。札幌の情報館。浅野。場所のスマホ予約。専門書の崩壊。全国2.8万の図書館。出版のインキュベーションとしての図書館。観光と図書館。写真収集。寄付の目線。事業と課題に注目。ブロックチェーンで著者にバックするしくみ。図書の分類に工夫。編集者的発想。、、、、、、、、、、。

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事前に映画をみることができなかったので、私は話題の岩波新書『未来をつくる図書館』を読了して参加した。図書館は図をもっと置け。人生100年時代の図書館。独学と遅咲きの時代。学びこそ本道。図書館・博物館・美術館・資料館のネットワーク。この名著のメッセージは「越境せよ」だ。

未来をつくる図書館―ニューヨークからの報告― (岩波新書)

未来をつくる図書館―ニューヨークからの報告― (岩波新書)

 

 終了後は、新大久保駅近くの商店街でベトナム料理を食べながら懇親会。韓国人を中心に各国の人が歩くインターナショナルな商店街、独特の熱のある人々の群れを見物しながら帰る。

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 昼食は、市ヶ谷のグランドヒルホテルの「サルビア」で、私の新しい出発を祝う家族の会。ありがとう。またやろう。

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「名言との対話」5月25日。川上源一「足元が明るいうちにグッドバイ」

川上 源一(かわかみ げんいち、1912年1月30日 - 2002年5月25日)は、日本楽器製造株式会社(現ヤマハ株式会社)の第4代社長。ヤマハ発動機株式会社創業者でもある。

旧制高千穂高等商業学校(のちの高千穂大学)卒業後、日本楽器製造(現:ヤマハ)に入社し、社長に就任し、ピアノ生産量を世界一にする。ヤマハの伝統戦略はこうだ。赤ちゃんが生まれると毎月1000円づつ貯金をしてもらう。4からヤマハ音楽教室でピアノを習い、10歳になった頃に溜まったお金でピアノを買うというストーリーをつくった。我が家もその通りの道筋で子どもたちはピアノを弾けるようになったし、ピアノは今でもリビングに鎮座している。そおういった戦略のおかげでピアノに親しむ習慣が根づいた。日本は今ではピアノの普及率は世界一となっている。また開発した電子オルガン「エレクトーン」は、電子オルガンの代名詞にもなった。

1955年にヤマハ発動機を創業し社長を兼務し、オートバイ、スポーツ用品、レクリエーションなど各種事業を創業した。会社の休日を「土日」ではなく、「日月」にし、レジャー産業を社員に教育している。「慎重に急げ」はオートバイ事業に進出した時の名言である。「日本も復興してきたたら、レジャーが産業になる」と考え、社長就任後、わずか1年でオートバイを製造販売し大ヒットさせた。川上は強烈なイノベーターであり、大きな成果を挙げた「ヤマハ中興の祖」である。

川上は次々と直面する課題に対して即時の決断と素早い実行を行ってきた。それには次のような心構えがあったのだ。「社長は戦国時代の大名と一緒で、すべて背水の陣でものを考えている。その都度、その都度、私自身、自分の決心に時間をかけたことはない」「常に自分の事業の姿がどうならなければならないか、という見通しを持っていなければ的確な意志決定はできない」。

川上源一は「足元が明るいうちにグッドバイ」という名言を吐いて社長から退くが、数年後には好調な業績をあげつつあった後継社長を解任し、社長に復帰している。「社長と副社長との間の距離は、副社長とヒラ社員の距離よりも遠い」という宮崎輝の名言があるように、不満もあったのであろう。ヤマハは源一の父、本人、息子と3代にわたって経営を担ったこともあり、「川上天皇」にも世襲批判はあった。やはり事業のバトンタッチは難題である。さすがの川上源一も、引き際の魔術師とはいかなかったようである。